友人の引っ越しの手伝いをしていると、段ボールの奥底から、登山靴とウェアが出てきた。
「え、京子登山したことあるの?」
「あるよー」
 私の驚きとは対照的に、京子は作業する手を止めることなくのんびり言葉を返す。段ボールから取り出した衣類を、クローゼットに収納しているようだ。
「いつ?」
「どうだっけ。雪があったから、冬?」
「そうじゃなくて」
 私の隣では、積まれたままの本が山脈を形作っている。背表紙をざっと見渡してみたが、登山に関する本はなさそうだ。京子と登山など、イメージが全く結びつかない。運動があまり得意ではなく、どちらかというと休日は家で過ごすタイプの彼女が、山を登る?しかも雪山を?色白で線の細い彼女が雪山にいたら、登山者というより雪女という感じがする。にわかには信じがたい。
「知らなかった」
「言わなかったね」
「好きなの?」
「好きではないよ」
「じゃあなんで登ったの」
「……やめようと思って」
「何を?」
京子は手を止めて、けれど私に背を向けたままで答えた。
「息をするのを」
 とある一冊の本のタイトルが目に入ったのと、彼女の言葉の意味を理解したのは、ほぼ同時だった。部屋の空気と私の思考が凍りつく。山積みの本から彼女に、視線を移した。やっぱりこの人は雪女なのかもしれない。幾秒か空けて、彼女はゆっくりと話を始めた。
「生きてる意味がわからなくなって、山に登ったの。死んでしまうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どうでもよくて。どこか遠くに行ってしまいたくて。苦労して登った山頂から見る朝焼けは綺麗だろうな。あまり好きじゃないココアもおいしく飲めるかもな。そしたら、またこの世界を好きになれるかもしれない。本当に死にそうになったら、『やっぱり私が間違ってた。まだ生きたい』と思えるのかもしれないって期待したんだ。でも、そんなこと思わなかった。空気は薄いし、朝焼けは雪に反射して目が痛いし、どこで飲んでもココアはまずいままだった。……期待は外れた」
 一呼吸おいて、彼女はこちらへ向き直った。まだ動きが止まったままの私と目が合うと、少しだけはにかみ、視線をそらした。指先で襟ぐりをいじっている。
「山を下りてから、なんとなくラーメン屋に入ったの。お腹は空いてなかったんだけど、何もせずに帰るのは悔しくて。……すっごくおいしかった。どこにでもあるような味だし、なんならもっとおいしいお店にも行ったことあるけど、その時はこれが世界一おいしい食べ物だと思った。空いてないと思ってたお腹も、ぐぅ~って主張しだして。夢中で食べてたら、なんでか涙が止まらなくって、泣きながら食べてた。周りの人は怪訝な目で見てたかもね。そんなのも気にしてられなかった。……そこで気づいたんだ。山に登る必要なんて無かったんだってこと」
何も言えないでいる私に、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「ね、今の話、どこからが嘘だと思う?」
 あぁ。その笑い方、私は嫌いだよ、京子。喉元まで出かけた言葉を呑み込む。そして、少し深めに息を吸った。
「その言い方だと、まるで最初から全部みたいじゃん」
「ばれちゃったかー。っていうか、お腹空かない?」
「そうだね。片付け終わったら、ラーメン食べに行こうか」
「えーやだ。うどんがいい。あんみつ出してくれるとこ」
「じゃあ、京子のおごりで」
「この話聞いた後にぃ?」
 ありふれた応酬を続けながら、本の山の端に手を伸ばす。やっといつもの顔になった京子に隠れて、私はそっと『完全自殺マニュアル』を自分のカバンにしまいこんだ。

 自室で一人、私は息をついた。引っ越しの手伝いで思いのほか疲れていたようだ。背伸びをすると、体がボキボキと鳴る。麦茶を飲もうと机の上のグラスに手を伸ばした時、一枚のプリントが目に入った。母から渡された、子宮頸がんワクチンのお知らせ。今年の四月から「積極的な呼びかけ」が再開される。
「で、あんたはどうするの?」
「受けた方がいいの?」
「さぁ?おすすめはしないけど」
 はっきりとは言わなかったが、稀に重い健康被害が出る、というところを心配しているのだろう。「稀に」というのは具体的には〇・〇三パーセントほどの確率だそうだ。ちなみに、交通事故で死ぬ確率は〇・五パーセント、殺人事件に遭う確率は〇・〇三パーセント、飛行機が落ちる確率は〇・〇〇〇九パーセントらしい。ざっくりと言えば、受ければがんになりにくくなるということだ。若くして死ぬ可能性が低くなる。死ななくても、病気になるだけでけっこうしんどい。受けた方がよい。わかっている。けれど、正直あまり乗り気でない。舌の上で氷を転がしながら、その理由を考えてみた。新型コロナウイルスのワクチンはすぐに予約をしたのだ。インフルエンザの予防接種も大抵受けている。通勤には電車を使っているが、駅までの道のりに通行量の多いスクランブル交差点や狭くて多少視界の悪い路地もある。実家に帰省する際は飛行機を利用している。ふと、カバンに視線を注いだ。『完全自殺マニュアル』はその中に入れっぱなしだ。子宮頸がんの罹患率は人口十万人に対して十四・一、死亡率は二・七。日本の自殺死亡率は人口十万人に対して、十四・七。約七千人に一人。私が住んでいるこの街の人口は一万五千人とちょっと。単純に考えて二人は完遂することになる。京子はその二人には入らなかった。少なくとも今は。そして私も。だが、これから先もそうだとは限らない。空になったグラスの代わりに、引き出しの奥底で眠らせていたマルボロとライターを持ってベランダに出た。元カレの嬉しくない置き土産。冷たい空気が頬を撫でる。空気の薄い雪山で、私の肺はどれだけもつのだろうか。京子の話を思い出しながら、体にとって毒でしかない煙を体内に入れ込んだ。