もう一度

 ピンポーン
 六月になって最初の土曜日、自室でくつろいでいると、突然インターフォンがなった。気象庁の宣言通り、どうやら梅雨に入ったようで、外はざんざん降りの大雨だった。昼間なのに随分と暗い。こんな日に誰だろうか。宅配も頼んでいなければ、家に遊びに来るような友人もいない。両親も、いくら過保護だと言ったって、なんの相談もなしに娘の家を訪ねたりはしないだろう。思い当たる人物は一人しかいなかった。
ピンポーン
また鳴った。どうしていいかわからず、居留守を決め込む。私は息を殺して訪問者が去るのを待った。
ピンポーン ピンポーン
四回目のチャイムが鳴り終わると、それ以降は何の音もしなくなった。雨音だけが耳に入る。諦めたのだろうか。恐る恐る立ち上がり、そっと音を立てないように玄関に近づいた。そして、ドアについた覗き穴から様子を伺おうとした時、つまみが音を立てて回った。
ガチャリ
外から施錠が解除される。驚いて後ずさると、ドアが開き、背の高い人物が現れた。
「はぁい」
常盤さんだった。いつか観た映画の敵役のように挨拶するなり、部屋の中に入ってくる。彼はこちらを向いたまま、後ろ手で鍵を閉めた。
「ダメじゃない、ちゃんとチェーンロックかけとかなきゃ。一人暮らしでしょ?危ないよ」
「……なんで?何で来たの?」
震えながら声を絞り出す私に、常盤さんはこともなげに返した。
「合鍵、返しに来たのよ」
言うなり、右手を前に差し出される。
「はい、どーぞ」
「あぁ……ごめん」
私はおずおずと両手を出した。彼に渡したままだった合鍵を手渡される。お揃いで買ったキーホルダーはつけっぱなしだった。呆けたようにその鍵を見つめる。頭上から、咳払いする音が聞こえた。
「悪いんだけどさ、ここに来るまでに濡れちゃって……タオル貸してくんない?」
言葉通り、彼はずぶ濡れだった。髪の毛からしずくがとめどなく滴っている。はじかれたように風呂場までタオルを取りに行った。戻ってくると、常盤さんは靴下を脱いでスリッパを履くところだった。
「ありがとう!できればあったかいお茶もほしいんだけど」
「えぇ?」
わざわざ持ってきたのだろう、見たことのない柄のスリッパだった。怪訝な顔の私を見て、眉尻を下げて笑う。
「すぐ帰るから、ね?」
ため息が出た。目の前で手を合わせ、可愛らしくお願いする彼は、本当に私より年上なのだろうか。
「一杯だけですよ」
諦めて部屋に入っていく。後ろから、自分のものより大きな足音が続いた。
 二人分のほうじ茶を運んでくると、常盤さんはミニテーブルに向かい、胡坐をかいていた。迷いつつも、私はその向かい側に座る。
「ごめんね、急に。ちゃんと話がしたくって」
私は何も言わずにお茶をすすった。常盤さんはそんな私の様子をうかがっているようだった。マグカップの縁を指でなぞりながら尋ねる。
「カオルちゃんは、どうして俺と付き合ってくれたの?」
どうしても視線が泳いでしまう。慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと口にしていく。
「お付き合いしないと、常盤さんが離れて行っちゃうと思ったから」
常盤さんは目を閉じた。眉間に皺が寄っている。そして静かにその目を開けると、穏やかに言葉を返した。
「確かに、あの時の俺はもしかしたらそうしてたかもしれない。少なくとも、それまでと同じ関係ではいられなかっただろうね」
「うん」
「それが怖かったんだ?」
私は無言でうなずいた。それを見た常盤さんは悲し気に笑ってみせる。
「俺のこと、全然好きじゃなかった?」
「そんなこと、ない。好きだった。人として」
「それは、友達を好きな気持ちと似てる?」
「……そうかもしんない」
言いながら、学生時代の友人のことを思い出してみた。みっちゃん、えみちゃん、まことくん……。でも、どれも少し違うような気がした。
「どっちかというと、家族みたいな感じの好きだった」
「そっかぁ」
常盤さんは優しくうなずいてくれる。私に向けていた視線を手元に落としてから、小さな子に語りかけるように話した。
「俺はね、カオルちゃんのこと、女の子として好きだったよ。もちろん今もだけど。手をつないだり、ハグをしたり、それ以上のことをしたいとも思った。……でも、それはしなくちゃいけないわけじゃなかったんだ。ただあなたと一緒にいられれば良かった。それで俺は幸せだった。同じ気持ちを返してくれるかどうかなんて、考えたこともなかったよ」
体の力が抜けていく。常盤さんの言葉は、しっとりと染み込むように私の中に入ってきた。
「カオルちゃんが一人で悩んで、苦しんでたこと、気づけなくてごめんね。わからなくて、躊躇ってたんだ。そこまで踏み込んでいいものかどうか。情けない話だよ、ほんと」
常盤さんは力なく笑うと、すっかり冷めたほうじ茶を一気に飲み干した。
「俺が言いたかったのはそんだけ。お邪魔しちゃってごめんね。ごちそーさま」
言いながら立ち上がり、常盤さんはそのまま部屋を出ていった。彼のいなくなった部屋は随分がらんとしていた。しばらく動けないでいると、またドアが開いた。彼が顔をのぞかせる。
「そうそう、俺の物とかあったら、捨てといてください。あと、ちゃんと鍵閉めなね」
パタリと扉が閉まると、今度こそ一人きりになった。冷たくなったマグカップは、もう私の指先を温めてはくれない。涙が出ないことが、何より悲しかった。

 姿を見せない蝉の声が耳に張り付く。いつも同じ家の塀の上でくつろいでいる猫が、今日はいない。額に滲む汗をTシャツの袖でぬぐいながら、俺は影を選んで歩いていた。目指すのはCDショップ。通い過ぎて店の陳列を暗記してしまった場所。大通り脇の細い道を入り、二つ目の角を右に抜けるのが近道だ。くたびれた小さなビルの自動じゃないドアをくぐり、エレベーターに向かう。周りには俺以外の客は見えなかった。上矢印のボタンを押し、数字が小さくなるのを待つ。ポーンと音が鳴り、扉が開いた。誰もいないその箱に乗り込む。階層を指定して扉が閉まるのを待っていると、女性客が駆け寄ってくるのが見えた。俺は「開」のボタンを押す。その客が入り切るのを確認して、「閉」のボタンを押した。二人を乗せたエレベーターは、黙って上へ向かう。見るともなく斜め上を見つめていると、隣から声が聞こえた。
「よかったら、開くまでお話しませんか?」
そう言うと、女性は小さく微笑む。それは俺がこの世で一番好きな顔だった。
「短すぎるよ」
扉上のランプが、静かに「3」の数字を示していた。