転がる先

 付き合ってからしばらくは、特に大きな変化はなかった。常盤さんも私も、態度を変えることはしなかった。付き合うまでと同じように、少しずつ変化は訪れた。常盤さんから「会おう」と言われる頻度が増えた。自然と会う回数は増え、互いの家に招くようになり、合鍵を交換した。二、三週間に一度はどちらかの家に泊まるようになった。私の家には、常盤さんのものが増えていった。歯ブラシ、着替え、読み止しの本、飲み切れなかったお酒、エトセトラ、エトセトラ。私の生活のどこを見ても常盤さんの影がちらついた。
「カオルちゃんも俺んちに荷物置いといたらいいのよ。どうせまた来るんだし」
私の家に物を増やすたび、常盤さんはそう言った。私は笑って誤魔化すことしかできなかった。
  「恋人」になってから、常盤さんは新たな一面を見せるようになった。彼の家には生活の跡がありありと見えた。パソコン周りのコードはぐちゃぐちゃで、四角い角を丸く掃くタイプであることがうかがわれた。部屋の隅には有名な通販サイトのロゴがついた空の段ボール箱が畳まれないまま積まれている。月に二度あるリサイクル品回収の日まではそのままなのだと言う。ほかにも、氷の入った麦茶をマグカップで飲んでいたり、左右違う柄の靴下を平気で履いていたりもした。お酒に酔ってふにゃふにゃになる姿も、付き合う以前は見たことのないものだった。居酒屋の個室でハイボールを飲んでいた時、とろけるような目で話してくれたことがある。
「俺、告白した時さ、すげぇ焦ったんだよね。あそこで言うつもりなかったから。なんなら、一生言わないつもりだったのに、ついぽろーっと喋っちゃって……。もし断られたら、もう二度と飯とか誘ってくれなくなるでしょ」
そんなことはない。私はずっと変わらない。きっと、いなくなるのはあなたの方だ。
「だから、OKって返ってきたとき、泣きそうだった。一緒にいてくれてありがとね」
そう言って目を細める常盤さんの眼差しは優しくて、心臓が締め付けられる思いだった。私はアルコールと一緒に言葉を呑み込むしかなかった。
 時折、彼の瞳に情熱がこもるのを感じた。それは、一緒に見ていたテレビをすっと消した時、食事中に目が合った時、残業で遅くなった私に、先に家に来ていた彼が「おかえり」と迎え入れる時、色々だった。そんな時、私はいつもその熱に気づかないふりをした。それを知っているのかいないのか、彼も何も言わなかった。
  一度だけ、私が明確に彼を拒んだことがあった。金曜日の夜、その日は私の家で常盤さんがご飯を作ってくれた。肉じゃが、ほうれん草の胡麻和え、豆腐と油揚げの味噌汁、白ごはん。前に「豚肉でしか肉じゃがを作ったことがない」と言っていた彼が、今回牛肉を使っていたのは、私の好みに合わせてくれたのだろう。
「めっちゃおいしい」
「そりゃよかった」
「手際いいですよね」
「一人暮らしも長いですから」
皿洗いは私が担当した。どちらかが手料理を振舞う時は、自然といつも振舞われた方が皿を洗うことになっていた。テレビでは、雛段芸人が司会に弄ばれ、抗議の声をあげているところだった。お茶の間に笑い声が響く。皿を洗い終わり、流し台下の収納スペースに取り付けたタオルで手を拭いていた時、すっと視界に二本の腕が入り込んだ。
「……動けないんですけど」
「知ってる」
常盤さんに背後から抱きしめられた。右腕は私の両腕の前に、左腕は腰に巻き付いている。私の顔のすぐ横に彼の頭があった。首元に息がかかる。彼とは二十センチ以上身長が違うため、私はすっぽりと彼の中に収まってしまった。彼の顔を見ると、彼もまた私を見ていた。ゆっくりと顔が近づく。
「え」
私は咄嗟にそれを避けてしまった。驚いた彼と目が合う。体の温度が下がるのを感じた。
こつん
おでこに向かって軽く頭突きをする。私を捕まえていた腕が緩んだ。その隙に私はその場を離れた。
「トイレ行ってくるね」
キスをよけた瞬間の、常盤さんの傷ついた表情が、寝る前になっても頭を離れなかった。それ以来、彼から私に触れられることはなかった。手が少し当たるだけでも、ピクッと反応するようになった。そんな彼を見て、私は申し訳ないと思いつつも、自分から何か行動することはなかった。
 常盤さんは優しいから、私がしてほしくないことは一切しなかった。私はそれに甘えていた。付き合い始めて数か月が経っても、私たちは同じ布団で眠らなかった。彼は、私をとても大切にしてくれた。何でもないように、普段通り過ごす常盤さんの目に熱が潜むのを感じるたび、私は彼に対して罪悪感を抱えていた。徐々に、私は不誠実なのではないか、と責めるようになっていった。それでも、彼と二度と会えなくなるのは嫌だった。なかなか寝付けず、夜中に目を覚ますことが増えていく。顔色は青くなり、目元が腫れることもあった。それらを隠すために、私はメイクを厚くせざるをえなかった。何をするにも疲れやすくなり、活字を読むのが辛くなった。以前好きだった音楽もただのノイズにしか聞こえなくなり、「忙しい」と嘘をついてデートを断り始めた。ただ唯一、仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済んで楽だった。進んで仕事を引き受け、残業をすることが増えていった。
  
  最近、恋人の様子がおかしい。あんなに明るかった彼女は、俺といるときは疲れ切ったような表情をしている。口数が減り、目が合わなくなり、お誘いも断られるようになった。悩み事があるのかと尋ねても、作り笑いで首を横に振られるだけだった。
「大丈夫」
そう言われてしまうと、その言葉を信じるしかなかった。恋人の俺にも言えないことがあるのか、とどす黒い感情が腹の中に渦巻く。けれど、嫌われるのが怖くて深く踏み込むことはできなかった。仕事が忙しいのか、帰りが随分遅くなっているようだ。そんな彼女のために何かできないかと、俺は久しぶりに彼女の家に行った。浴槽に湯をはり、アスパラと鶏肉を炒める。もう随分と暖かくなってきたが、栄養が取れるように豚汁を作った。確か彼女の好物でもあったはずだ。しかし、料理が全て出来上がり、お風呂が沸いても彼女は帰ってこなかった。出来た料理にラップかけて、お椀によそってあったお味噌汁を鍋に戻す。玄関の扉が開く音がしたのは、二十三時を回ってからだった。
「ただいまぁ」
間延びした声が聞こえる。いつもの彼女らしくない。ゆっくりと玄関へ向かうと、眠たそうな目でふらふらと揺れている彼女がいた。
「おかえり。遅かったね」
「あれ、なんでぇ?」
首が座っていない。家に着いて緊張の糸が切れたのか、彼女はばたりと前に倒れこんだ。慌ててそれを受け止める。外気に交じってアルコールの匂いがした。そのまま彼女は寝てしまった。あまり強くないのにここまで飲むなんて。ここまでどうやって帰ってきたのか不思議なくらいだ。倒れこんだ拍子に、彼女の鞄が床に落ち、中身がばらまかれた。ひとまず彼女をベットまで連れていく。ジャケットを脱がせ、鑑の前にあったメイク落としで化粧をとってやる。よほど眠たいのか、その間に彼女が目を覚ますことはなかった。玄関に戻り、ぶちまけられた鞄の中身を拾う。何があって何がないのかよくわからなかったが、目につくものはすべて拾い上げた。その中に、見覚えのある黒いペンがあった。卒業祝いに俺が贈ったボールペンだ。彼女が毎日使うこの鞄に入っていたということは、それだけよく使ってくれているということだろうか。何気なくキャップを回す。すると、ペン先からインクが漏れた。慌てて辺りを見渡す。ミニテーブルの下にティッシュを見つけ、それを二枚取った。インクをぬぐおうとペン先を見ると、それはボールペンではなく、万年筆だった。軸を回してみると、S.Fの文字が目に入る。俺の知らないイニシャルだ。ファミリーネームがFということは、ご家族に貰ったものなのかもしれない。そう思って自分を落ち着けた。鞄に適当にしまい、彼女の部屋に置きに行く。何気なくパソコンのある机の上を見ると、ペン立ての中にも黒いペンが見えた。K.Fのイニシャルが光る。俺はそっとドアを閉めると、書置きを残して彼女の家を後にした。家路に着く俺の頭の中にあったのは、元カノの香蓮のことだった。

 香蓮と付き合い始めたのは、大学生の時。同じサークルに所属していた彼女のことが、俺は気になっていた。美人だった香蓮はマドンナ的存在で、彼女が参加する飲み会には、サークルとは関係のないやつが交じったりもしていた。周りの連中が次々と玉砕していく中、臆病だった俺は下心を隠したまま、良き友人のポジションに収まった。ファミレスで彼氏との仲を相談されて、遅くまで話を聞いたこともあった。社会人一年目の秋、夜中に電話がかかってきた。彼氏と喧嘩して、同棲している家を飛び出してきたらしい。俺は香蓮の気が済むまでコンビニの前で話をした。翌週には俺たちが付き合うことになった。
  相談を受けている時から薄々気づいていたが、香蓮は重い女性だった。恋人になってからは、他の女の子とご飯に行けなくなった。男女混合の飲み会も、断ることが多かった。時には、男友達との食事も女の子と会うのではないかと疑われた。けれど、俺にとってそれはさほど苦ではなかった。束縛されるのは、それだけ愛されているのだと考えていたから。行きたい場所があれば連れていき、欲しいものがあれば貯金を切り崩すこともあった。彼女を不安にさせないように、最善を尽くしたつもりた。俺は香蓮を愛していた。
  けれど、付き合いだしてから三年ほど経った頃、たびたび彼女の帰りが遅くなることがあった。最初は気にしないようにしていたが、あまりにも遅い時間に帰ってくるので、ついに我慢ならなくなった。彼女に問いただすと、会社の同期に、俺との仲を相談していたらしい。その同期は男だった。浮気ではないと言ってはいたが、俺は許せなかった。散々喧嘩した挙句、彼女は出ていった。
「あんたは優しすぎるんだよ。重たいの!」
机の引き出しに隠していた指輪は、用済みになった。それ以降、俺に恋人はいないままだった。

 朝起きると、スーツのままベットで寝ていた。メイクは落とされている。家に帰って来てからの記憶がなかった。机の上を見ると、男性らしい字でメモが残されていた。
「ご飯作っときました。メイクは落としたけど、お風呂の湯は抜いてないよ。頑張り過ぎは体に毒だからね  ときわ」
台所に行くと、二人分の食事が用意されていた。私と食べるために、待っていてくれたのだろうか。豚汁を温め、ご飯をよそう。アスパラと鶏肉の炒め物は胡椒が効いていておいしかった。豚汁で、目覚め切っていない身体が温まる。具だくさんの味噌汁を口に運びながら、私は静かに泣いた。悲しくても、涙が唾液と混ざっても、彼の料理はおいしかった。彼に本当のことを話そう。初めてそう思った。

 その週の木曜日、カオルから連絡があった。
「この間はありがとうございました。久しぶりにご飯に行きませんか?」
どこか他人行儀なその文言に、嫌な予感がした。
「オッケー。早めに仕事切り上げるね」
予感が的中しないことを、いるかどうかもわからない神様に祈った。
 仕事を終え、指定された居酒屋の個室に入ると、彼女はもう先に来ていた。なんだか少しやつれているようにも見える。
「やぁ」
挨拶しつつ、彼女の前の席に座る。元気?とはとても聞けなかった。
「こんばんは」
微笑む顔が痛々しい。テーブルの上で重ねられた手を見ると、爪が薄紫色をしていた。目線に気づいたのか、彼女は爪を隠すように手を握る。
「今日は仕事いいの?」
「はい」
会話が続かない。必死に脳みそを回転させたが、ちょうどいい話題は見つからなかった。俺の手は所在なくおしぼりを弄ぶ。彼女が沈黙を破ったのは、注文したウーロン茶とビールが目の前に運ばれてきてからだった。
「常盤さん、私、話したいことがあるんです」
ひゅ、と息が止まる。顔の周りの空気が二度ほど下がった気がした。
「なぁに?」
茶化していい雰囲気ではないのに、わざとらしくとぼけたような言い方しかできない。そんな自分が嫌で仕方なかった。追手から身を隠す逃亡者のように息をひそめて、次の言葉を待った。そんな俺をまっすぐ見据え、彼女は口を開く。
「実は私、恋愛感情がわからないんです」
「え?」
その言葉は、俺が想像していたものと全く違っていた。
「どういうこと?」
彼女は堰を切ったように話し始めた。恋愛について、友人の話が理解できなかったこと。初めて付き合った男の子と上手くいかなかったこと。そして、叔父の存在に救われていたこと。
「だから、辛くって。あなたと同じ感情を返せないことが。あなたと一緒にいたい。でも、それは常盤さんが私に向ける感情とは別物なの。辛いんです、私」
予想外の告白に、俺は呆然とする。
「じゃあ、最近様子がおかしかったのは……」
「そのことでずっと悩んでいて、常盤さんには言えなくて。苦しかったんです。常盤さん、優しいから」
「叔父さんの代わりだったんだ、俺は」
カオルは何も言わない。というより、言葉を探しているのかもしれなかった。返事を待たずに俺は続ける。
「男として見てなかったってこと?」
一瞬目を泳がせてから、彼女は無言で頷いた。俺の頭は真っ白になる。
「なにそれ」
口がカラカラに乾いている。開いた口をどう動かせばいいか、わからなかった。
「じゃあ、今まで俺と過ごした時間はなんだったの?付き合ってくれたのは?俺のこと、なんとも思ってなかったのかよ」
「違う!」
下を向いていた彼女が、勢いよく顔を上げた。その表情は苦痛に歪んでいる。
「そうじゃない、そうじゃないんです。ただ、私は、私は……」
震えながら言う彼女は、今にも泣きそうだった。はっと我にかえる。
「ごめん、強い言い方して」
「いえ……大丈夫です。ごめんなさい、私こそ」
「ちょっと、頭冷やしてくるね」
そう言うなり俺は立ち上がり、店の外に出た。五月の初めだというのに、空気が生ぬるくて気持ちが悪かった。夜なのだからもっと冷えればよいのに、と何に対してかわからない怒りがわいてくる。それは、この状況を受け入れきれない自分への苛立ちでもあった。
 暖簾をくぐり、店内に戻る。席に着くとき、真っ白な顔をした彼女と目が合った。安心させるように笑ったつもりだったが、口を動かしただけにしか見えなかったかもしれない。そわそわと足をゆすってしまう。自分から切り出さなければならない。大丈夫だよ。恋愛感情なんて無くても、俺はあなたを愛している。そう言わなければ。しかし、口を開くよりも早く、彼女の声が耳に届いた。
「別れましょう」
愕然とする。頭が回らない。彼女の視線が俺を貫いた。
「え、なんで」
戸惑う俺に彼女は淡々と告げる。
「今日で会うのは最後にしましょう」
「待ってよ、なんでそういうことになるわけ?」
「常盤さんは優しいから、私なんかに時間を使ってちゃいけない。あなたを幸せにできる人がきっといるはずなんです」
「俺が重いから?付き合いきれなくなった?」
「あなたには幸せになってほしい。私では、あなたと幸せにはなれない」
「答えてよ、俺の質問に」
その口調に気圧されてか、彼女は動揺し、口ごもった。一瞬の隙をついて、反撃に出る。
「だいたい、なんで君がそんなこと決めるんだよ。さっき一緒にいたいって言ってくれたじゃん。一緒にいればいいでしょ。幸せだよ、俺。それがなんで、なんで別れることになるの。俺の幸せを否定しないでよ」
俺はなんでを繰り返した。どうにかして彼女を引き留めようと、理屈をこねくりまわす。よく回る舌が、こんなところで発揮されるのが辛かった。彼女は黙ってそれを聞いている。その目を見て、気がついた。彼女は俺ではなく、どこか遠くを見ているようだった。もう曲げる気はないだろう。目が熱くなる。俺は半ば泣きながら喋り続けた。
「ねぇ、他の誰よりもあなたを大切にするよ。幸せにできるかわからないけど、誰よりあなたのことを想ってるから……だから、俺といてよ」
後半の方は涙が抑えられなかった。いい歳したおじさんが、みっともなく別れを拒んでいる。俺はそれでもかまわなかった。彼女が考えを変えてくれるなら。
「ごめんなさい」
静かにそう告げると、彼女は五千円札と合鍵を置いて店を出ていった。追いかけることはしなかった。誰も手をつけなかった料理を胃の中に押し込んで、俺も帰宅した。曇っていて星も月も何も見えない夜だった。土砂降りになればいいのに。そう呟いても、どこからも返事は返ってこなかった。
 その日から、彼女とは連絡が取れなくなった。俺も積極的にはメッセージを送らなかった。何をしてもダメだという気がした。幸い、やることは大いにあった。今まで以上に、俺は仕事に没頭した。家と職場を往復する日が続く。家にいると、何をしていてもカオルの顔がちらついた。彼女と付き合う前の俺は、どうやって生活していたのだろう。休日はどう過ごしていたのだろうか。それさえも思い出せなくなっていた。
  十日ほど経ってから、俺はふと思い立って部屋の掃除を始めた。カオルとの思い出の品を片付けようと思ったのだ。彼女のために買ったマグカップ、箸、スリッパ、歯ブラシ。それらを見るたびに辛かった。ついでに部屋中を綺麗にしてやろう。俺はやけになっていた。そういえば、香蓮と別れたときもこんな風に大掃除をしたっけ。手始めにテレビの裏の埃を取っていると、当時の記憶が蘇った。あいつはテレビの後ろやベットと壁の間など、わかりにくいところにわざと口紅やヘアゴムを忍ばせていた。香蓮は俺を重いと罵ったが、あいつも大概だ。俺はカオルの痕跡を探した。脱衣所のかご、本棚、ベッドの下、枕の中。案の定、カオルは何も置いてはいなかった。それどころか、彼女が自分で俺の家に持ち込んだものは一つもなかった。あるのは、俺が彼女のために用意したものだけ。奥歯を噛みしめながら探し続ける。唯一見つかったのは、冷凍庫に残ったカップアイスだけだった。
「年中いつでもアイスはおいしいんだよ」
とか何とか言ってたっけ。カオルが家に来なくなってから、ずっとそのままにしていた。蓋を開けて、乱暴に中身をすくう。無表情でそれを口に入れた。口の中が甘ったるくて冷たい。嗚咽しながら、俺はアイスをかきこんだ。バニラの香りが一人の部屋に漂った。

 五月の半ばは、夏を間近に感じる季節だ。気の早い蝉たちはもう鳴き出している。土から出たばかりの蝉たちは、コンクリートジャングルを見て何を思うのだろうか。そんなことを考えながら、私は駅構内のスターバックスでコーヒーを飲んでいた。結婚以来疎遠になっている叔父と、そこで一年ぶりに会う約束をしていた。
「やぁ。大きくなったな」
「お久しぶりです」
最後に会った時から、叔父はちっとも変わっていなかった。黒い無地のワイシャツに、グレーのスラックス。仕事中はオールバックにしている髪を、今は下ろしている。前髪が目に当たってうざったそうだ。六月にしては気温の高い中、シャツの袖はまくられることなく、きっちりボタンまで留められている。暑くないのかと聞くと、トレンチコートを着てこようかと思ったなどと返され、私は閉口した。軽い世間話が続く。母親が猫を飼いたいらしいこと、でも父親は動物嫌いで許してくれないこと。最近読んだ小説が面白くなくてびっくりしたこと、スイパラに行ってみたい話など、色々な話をした。結婚相手のことは、私も叔父も口に出さなかった。
「どうだ、仕事は上手くいっているか」
「えぇ、まあ」
「じゃあ、仕事以外のことだな。上手くいってないのは」
反射的に叔父の顔を見る。叔父はにやりと笑った。しまった。かまをかけられた。
「……お見通しですね」
「顔に書いてあるぞ」
相変わらず人の感情の機微に敏感な人だ。この人の前では隠し事ができない。昔からずっとそうだった。
「あぁ、別に話せってわけじゃない。言いたくないなら言うな。聞きたくない」
「……」
「いやぁ、今日はいい天気だなー」
「それはへたくそすぎるでしょ」
目を合わせて笑う。私は、叔父になら話してもいいと思った。ゆっくりと事の顛末を話す。熱くならないように、つとめて冷静に。自分のことも常盤さんのことも、誤解が少ないように客観的に言葉にした。
「そんなことしてたのか」
半ば呆れたような顔をする。目が合わせられず、コーヒーとカップの境に視線をやった。
「言ってくれればいつでも会ってやるのに……。まあでも、お前は俺に懐きすぎているきらいがあったからな。叔父離れは必要だと姉さんとも話してたんだが」
「え、なにそれ。初耳なんですけど」
「うん。初めて言った」
叔父は肘をつき、掌を口の前で合わせて拝むようなポーズで考えこんだ。シャーロキアンでもないくせに。出所のよくわからない毒を心の中で吐く。少しして叔父は手を離し、顎の下で指を組み直した。
「……別れる必要はあったか?」
「へ?」
「いや、ふと思ったんだがな。そいつはお前と同じ感情を返してほしがっていたのか?」
思ってもみない方向から言葉が飛んできて、一瞬固まってしまう。なんとか頭を回して、しどろもどろになりながら答えた。
「そりゃ、そうでしょ。付き合うってそういうことなんじゃないの?」
「まぁ、一般的にはな」
「相手から見て、自分と同じ感情を返してくれないってなったら、一緒にいられなくなるでしょ。私なんかより、自分と同じように愛してくれる人といた方がずっといいって」
「ほら、そこなんだよ」
「なにが?」
「お前、その彼氏とちゃんと話してないだろ」
「話したよ」
「じゃあ、お前が話を聞いてないんだ」
「なんでそんなことが言えるの?」
「お前の話の中には、『ときわさん』がこう思うはずだ、とか『普通はこうだ』なんてのは出てくるが、実際にそいつがどう思ってるのかは触れられていない」
言葉が出てこなかった。そんな私をよそに、叔父は淡々と話し続ける。
「彼のためとは言うが、そいつはお前と別れたくなさそうだったんだろ。頭の中のそいつの声はよく聞いてるみたいだが、現実にいる彼の言葉を聞いてやったか?」
私は呆然とした。叔父は、もうすっかり湯気のあがらなくなったコーヒーを、くいと飲みほした。
「まあ、お前のしたいようにすればいいさ。こうでないといけないなんてことはないんだから」

 渋谷駅から大通りに沿って東側へ十分ほど歩くと、右手に新宿御苑が見える。大名屋敷の跡地に建てられたらしいが、詳しいことはわからない。ただ、広さが約一四四エーカーと聞いて、大学生の俺は「百エーカーの森って意外と狭いんだな」と思った。そんな新宿御苑の反対側へ進み、何個目かの角を右に曲がるとその店はある。カオルと出会う以前、よく顔を出していたバーだ。立地も雰囲気も変わっていなかったが、「open」の札は最近書き直された跡があった。
「いらっしゃい。ってあら、つとむちゃんじゃないの!」
「久しぶり、ママ」
俺より七つほど年上の彼が、ここの店主だ。馴染みのある顔を見て、ほっとする。知らない間に気が張っていたようだ。適当な席に座り、ハイボールを頼んだ。繁盛しているわけでもなく、閑古鳥が鳴くわけでもないこの店は居心地が良かった。よくここを訪ねていた当時のことを思い出しながら、一人静かに酒を飲む。他の客が帰るのを見届けてから、ママは俺に話しかけた。
「随分ご無沙汰だったじゃない?」
「まあね」
「元気にやってるの?」
「それなりに」
ママの目がどこを見ているのか、手に取るように分かった。今、俺は酷い顔をしている。カオルのことを相談するべきか迷っていると、ママはしびれを切らしたように言い放った。
「もう、さっさと話しちゃいなさい!どうせまた変な女につかまったんでしょ。聞いてあげるわよ」
カウンターに頬杖をついて、半目になるママ。その動きがコミカルで可笑しかった。
「付き合った彼女に、自分には恋愛感情がないって言われたんだ。俺のこと、そういう目で見てなかったって。同じ気持ちを返せなくて辛いんだって。で、別れようって言われた」
ママは、深いため息をもらす。
「なんでその子はあんたと付き合ったのか聞いた?」
「聞いてない。でも、俺と一緒にいたいって気持ちは嘘じゃないって」
「私には理解できないわね」
ママはきっぱりとそう言い切った。。二人して黙り込む。
「でも、いるわよねぇ、そういう子。流行りなのかしら」
「こういう子に相談されたりするの?」
「しないわよ。そういう輩はここへは来ないでしょ。話に上ることがあるの。大抵若い子だわ。友達が恋バナしてくれないーとか、好きな人が恋愛しない人だったーとか。しょうがないから諦めなさいって言うけどね」
では、付き合った人が恋をしない人だった場合はどうすればよいのだろう。
「やっぱり、どうしようもないのかな」
「そうねぇ。女の子は『彼のこと好きかわからなくなった』なんて言うこともあるけど、それとは違うわけでしょう?」
「そうだと思う」
俺はどこで間違ったのだろうか。最初から、カオルとも距離を保つべきだったのか。でも、近づいてきたのは彼女の方だ。
「俺が重たかったのかな……」
 俺はカオルが大好きだし、これからもずっと一緒にいると思っていた。けれど、それが彼女にとって重荷だったのかもしれない。黙り込んでしまった俺を、ママが見つめる気配がする。ややあって、彼は俺の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、あたしがあんたのこと好きっていったらどうする?」
「え」
突然のことに身体がこわばる。今、店内には俺とママしかいない。
「ばかね。例えばの話よ」
「あぁ、なんだ。びっくりした」
「で、どうすんの?」
「こ、断る。付き合いはしない」
「そうでしょうね。それはなんで?」
「好きじゃないから?」
「なんで疑問形なのよ。それで?その後はどうするわけ?」
「その後?」
「断った後よ。告白される前と同じように店に通える?」
「通えない。二度と来られなくなる」
「そうね。それが当然の反応だわ。じゃあ、あんたが入れる飲み屋がここしかないとしたら、どう?」
「……どういうこと?」
「いいから答えなさい。家で飲むのも禁止よ」
俺は想像力を働かせる。飲みはしたいが、気まずくて店内にはいられない。家でも飲めないとなると、禁酒するしかない。かといって、それができるかと言えば違う問題だった。答えを出せず、押し黙ってしまう。そんな俺を見て、ママは右の眉尻を上げた。
「っていうのが、あんたの彼女が置かれてる状況なんじゃないかしら」
「えぇ?」
いまいち話がつかめなかった。本当にそういうことだろうか。
「その子は馴染みの飲み屋をもっと増やすべきなのよ。あんたが気に病む必要はないわ」
穏やかに、母親のように彼は言い聞かせる。納得はいかなかったが、不思議と言葉は頭に入ってきた。
「じゃあ、もう二度と店主はその客に会えないの?」
ママは、困ったように天井のあたりを見つめた。そして、静かに返す。
「それは、あんたの頑張りしだいかしらね」
空になったグラスを回す。氷とグラスのぶつかる音が、店内に響いた。

 自室で横になってからも、ママの言葉が頭を離れなかった。酔っているはずなのに、妙に眼が冴えて寝付けない。電気をつけ、本を読もうと棚に視線をやると、一冊の小説のタイトルが目に入った。一昨年の年末、カオルと行った池袋の書店で買った本だった。手に取り、パラパラと中をめくる。年末年始の帰省中に一度読んだきりだった内容が蘇ってくる。けっこう好きな話だった。もっと若い頃に出会っていたら、読書暦が変わっていたかもしれない。けれど、普段なら絶対に買わないタイトルのつけ方だとも思った。あの売り方でなかったら、一生読むことはなかっただろう。パタリと本を閉じ、棚に戻す。どうしてもカオルのことが思い出されて、集中できそうになかった。
  読書は諦め、ベランダに出て煙草を吸うことにした。年に数回しか吸わない俺は、煙草を机の引き出しの中にしまっていた。手に当たった箱を振ると、残り数本分の重みしかない。また買っておかなくては。そう思ったところで、ライターが見当たらないことに気がついた。電気をつけてもう一度引き出しを開ける。一応、通勤に使う鞄の中やベッドの下まで探したが、どこにもなかった。
 俺は電気を消し、再びベッドに寝転がった。きっと、カオルの家に置き忘れたのだ。そうだ、そんな気がする。別に、ライターぐらい、またコンビニで買ってもいい。暑くてよけていた毛布を上までかけ直す。けれどやっぱり寝つけはせず、諦めた俺は瞼を開けたまま、思考が浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返すのに身を任せていた。