姿なき糸に引かれて

 五分程前、このエレベーターは停止した。一・二階に書店、三階にはCⅮショップ、地下に喫茶店を擁したこの古びた小さなビルは、これまた古臭い四人乗り程度のエレベーターを腹に抱えていた。毎度乗るたびにいつか止まるのではないかと心配していたが、ついにその日が来たらしい。一緒に乗っていた若い女性客はうろたえている。俺は、冷静にすべての階のボタンを押し、次に非常ボタンを押した。階層ボタンの上のスピーカーから、「どうなさいましたか」と感情の載らない声が聞こえる。停止したエレベーターが再び動き出す気配はない。
「エレベーターが止まってしまいまして」
「分かりました。少々お待ちください」
程なくして、再びスピーカーが震えた。どうやら、機械設備のトラブルらしく、小一時間ほどそのまま待つように言われた。

 俺には、暇があるとCⅮショップを回り、気になったものがあればジャンルを問わずに買うという癖があった。自宅からほど近いこのCⅮショップには特によく出入りしている。今回も例にもれず購入したCⅮを鞄にしまい、古ビルを後にするところであった。今日は休日のため、この後の予定はないものの、自分の意志とは別に拘束される時間は、けっしてワクワクさせるようなものではなかった。しかも今は真夏だ。エアコンまで壊れてはいなかったのは、不幸中の幸いだろう。ふ、と溜息とも言えぬほどの小さな息を吐く。

「よかったら、開くまで話しませんか?」
 不意に、女性客に声をかけられた。短くそろえた黒髪にはウェーブがかかっており、この小汚い箱の中で唯一艶めいている。レモンイエローのノースリーブのワンピースを着て、途中で脱いだのか、白い薄手のカーディガンを手に持っていた。少し早い残菊の色目だからか、それとも彼女の肌が透き通るように白いためか、どことなく水辺のほとりのような涼しさを思わせた。運悪く同じエレベーターに乗り合わせた彼女は、暇を持て余したのか、それとも俺と二人無言であることに耐えきれそうになかったのか。どちらにせよ、手持無沙汰だった俺はその申し出をありがたく受け入れることにした。
「僕でよければ」
やったーと彼女は可愛らしく笑う。つられて俺もふにゃりと笑った。その顔がどう見えているのかは考えたくない。
「お買物ですか?」
「えぇ、まぁ」
「何か気になる物はありました?」
「そうですね、特にめぼしい物は何も。一枚だけ、懐かしいアルバムを見つけたので、それくらいかな」
「へぇ、そうなんですか。懐かしいものって、つい手を伸ばしちゃいますよね。何を買われたのか、聞いてもいいですか?」
「ええと、そうですね。わかんないかもしれないけど、筋肉少女帯の『エリーゼのために』です」
「あ、いいですね!『戦え!何を?人生を!』とか大好きです」
「本当ですか」
思わず前のめりになりそうになるのを、ぎりぎりで抑える。そのアルバムを手にした時、丁度同じ曲が俺の頭に流れていた。目の前の彼女は、そんな俺の様子に気づいていないのか、そのまま話し続ける。
「いいなぁ。私もCⅮショップ寄れば良かったですね。本屋さんにしか行くつもりなかったから」
「本、お好きなんですか」
「はい。最近は五木寛之にはまっていて」
「『さらばモスクワ愚連隊』いいですよね」
「そうなんです!お兄さんも読まれるんですか?」
「えぇ」
「他にはどなたを?」
「円城塔とか」
「『道化師の蝶』が読みやすかったです」
「あと、安部公房」
「『箱男』は強烈でしたね」
「筒井康隆」
「『旅のラゴス』がお気に入りです」
無言で俺は右手を差し出した。彼女は少し驚いた様子だったが、すぐに笑顔になり、私の手を握った。俺たちは良い友人になれる。なんとなく、そう感じた。

 エレベーターの扉が開いたころには、二人はすっかり打ち解けていた。思ったよりも早く開いたような気がしていたが、時計を見ると一時間半以上そこにいたようだ。彼女と別れるのは惜しかったが、今後の約束をするのは躊躇われた。もしかすると彼女は、俺に気を遣っていただけなのかもしれなかった。俺は身長が一八七センチある。昔から小さい子供には怖がられたし、目が合っただけで「睨んだ」と勘違いした同級生もいた。エレベーターという密室空間で、高身長の、しかもおそらく年上の男性と一緒に過ごすというのは、彼女にとっては恐怖になりえたはずだ。意気投合したと思っていたのは、おじさんの恥ずかしい勘違いかもしれない。ビルの出口まで、お互いに無言で進んでいく。
「あの、この後って予定あります?」
「へ?」
驚いて彼女の方を見ると、きまりが悪そうにスカートの裾を触っていた。
「いや、その、もしよければなんですけど、もう少しお話しできないかなって。……だめですかね?」
眉を八の字にし、小首をかしげる彼女を見て、ふわりと身体が浮くような気持ちになった。何も言わない俺を見て勘違いしたのか、彼女は両手をパッと顔の前に出し、違う違うというように振りだした。
「あ、えぇと、だめなら大丈夫です。すみません。ちょっと聞いてみただけなので。お気になさらず。本当に。では、失礼しますね」
「ちょっと待って」
その場を去ろうとする彼女の腕を、焦ってつかんでしまった。エアコンで冷えた肌が、俺の熱い掌の中にある。俺は血の気が引いた。彼女も俺の右手を見て、固まっている。慌てて手を離し、言葉を紡いだ。
「そうじゃなくて、えっと、嬉しいです。僕も同じことを考えていたので」
彼女は目を大きく開くと、俺の方へ向き直った。俺は頭をかきながら下手くそな笑みを浮かべる。
「よかったら、この後ご飯でもどうですか」
「もちろん!」
今日一番の笑顔を見せる彼女が、三十路を過ぎた自分には眩しかった。
 その後、俺たちは一度別れ、十九時半に近くの駅で待ち合わせることにした。ここ数年は仕事にかかりきりで、自分から女性を食事に誘うことなどめったになかった。あっても、それは仕事上の付き合いでしかない。また、それ以上に、趣味の合う友人を見つけられたことに浮足立ってもいた。もともと外に出る格好をしてはいたのだが、いつもより髪を撫でつけて、服に皺やほこりがついてないか入念にチェックした。そわそわと時計を確認しながら、どうやら少しばかり緊張している自分に、一人苦笑した。
 彼女は、待ち合わせ時間の五分ほど前にやってきた。昼間と同じワンピースと、今度は袖の通されたカーディガン。すっと伸びた背筋と、黄色と白の淡い組み合わせは涼しげで、夜の駅の中でも目についた。待っている間も、スマホを見ているわけでもなく、周りを流動する人の群れを観察しているようだ。やがて、俺に気がつくと花が咲くように笑った。月並みな表現しか持ち合わせていない自分が歯がゆい。
「こんばんは!」
「こんばんは」
「さっそく行きましょうか」
彼女に歩幅を合わせて、ゆっくりと歩き出した。

「へぇ~、常盤さんって出版社で働いてらっしゃるんですね」
「大したものじゃありませんよ」
「またまた。倍率高いって聞きますよ。どういうことをするんですか?作家さんに原稿をもらいに行くとか?」
「いや、僕は営業部なので」
「そうなんだ!かっこいいですね」
ウーロン茶を片手に無邪気に笑う。お世辞でも悪い気はしない。彼女は年上の扱いをよくわかっているようだった。
「藤咲さんも、この辺にお住まいなんですか?」
「いえ、私は旅行で来ているので」
「そうなんだ。旅行中にエレベーターが止まるなんて災難でしたね」
「でも、そのおかげで常盤さんと知り合えましたから」
左耳に髪をかけながら、彼女は目を伏せてプルコギを口に運んだ。咀嚼する様子から目が離せない。
「いつお帰りになるんです?」
「明日です」
連絡先を聞かなくては。緊張感が走った。今を逃すと、一生後悔するかもしれない。けれど、僕が意を決して口を開くよりも、彼女の声が耳に届く方が早かった。
「来週からまた授業があるので」
「……学生さんでしたか」
「はい。大学が始まっちゃいます」
その後、割り勘にしようとする彼女をいなしながら支払いを済ませた。店から出る時、彼女に連絡先を交換しないかと聞かれたが、俺はこれを断った。「今後もし、もう一度会うことがあったら、その時は」とか何とか言って、まっすぐに家へ帰った。一人きりの自室に、俺の足音だけが聞こえる。去り際に小さく手を振ってくれた彼女の姿をかき消すように、ビールを流し込んだ。ほろ苦さがじんわりと口内に広がった。
 それからしばらく、彼女を思い出すことはなかった。仕事の方も順調で忙しく、ひと回り下の女の子のことを考えている余裕などはなかった。数か月程経ったある日、俺は関西にあるオフィスに出張することになった。お得意先へのプレゼンに助っ人が必要になったそうだ。俺を推してくれた人は、以前教育係としてお世話になった人で、その時の頑張りを覚えてくれていたそうだ。昔から人前で話すことだけは褒められた。それが買われて営業部の所属となったのだが。そのプレゼンも無事に終わり、飲み会も二件目まで参加してしまえば、あとはすることがない。しかも今日は金曜日だ。せっかくなので、近くで飲み直すことにした。
 そういえば。ふとある人の顔が浮かんだ。藤咲だ。彼女が住んでいるのは、確かこの辺りではなかっただろうか。県名を聞きはしたものの、詳しい地名などは聞かなかった。どうしても会いたいというわけではなかったが、思い出すと無性に気になってしまい、結局大学のある都市まで足を運ぶことにした。駅前をうろついてみても、わけもなく駅中のエレベーターに乗ってみても、黒く艶めくセミロングを探してしまう。けれど、そこに彼女はいない。それはそうだ。そもそも、県内の大学はそこだけではない。しかも、時計の針はもうすぐ二十三時を指そうとしている。こんな時間に外を出歩いているとも限らない。我にかえった俺は、深く息を吐くと、適当に近くのコンビニに入った。煙草が吸いたい気分だった。コンビニでウィンストンと安いライターを買うと、特にあてもなく建物を眺める。ふと、ある看板が目に留まった。近くのビルの二階にバーがあるらしい。なんとはなしに、その看板の示す先へ、俺は向かうことにした。
 そこはオーセンティックバーだった。薄暗い店内に人はまばらで、品の良いジャズバンドの演奏が、ゆったりとした時間の流れを感じさせた。こんな日に飲むにはもってこいだ。カウンターの手前から二番目の席に黙って腰かける。バーテンダーにジン・トニックを注文して、それが届くのを待った。
「お待たせいたしました。ジン・トニックでございます」
顔を上げた俺は、店員の顔を見て息をのんだ。
「藤咲さん」
肩まで伸びた髪を、今日は後ろでまとめていたため、一瞬誰だかわからなかった。目を見開いたままの俺に、彼女は海外の店員のように片目を瞑って見せる。
「どうぞ、ごゆっくり」
そう言うなり、カウンターの奥へ入って行ってしまった。ウインクされたことに気がつくまでたっぷり五秒を要した。空席を一つ挟んで右隣の客に声をかけられる。
「なんだい、あんたカオルちゃんの知り合いかい?」
「カオルちゃん?」
「さっきの店員だよ。べっぴんだよな」
グラスを揺らしながら教えてくれる彼は、常連客だろうか。おおかた五十代というところだ。おでこの付け根が少々後ろに下がり始めている。既に酔っているのか、顔は赤らんでいた。
「恋人はいるのか聞いても、デートのお誘いをしても、うまいことはぐらかされちまうんだよ。な、あんたも気になるんだろ?」
「いやぁ、そういうわけでは」
「飯田さん、飲みすぎですよ」
ドキリとしたところへ止めに入ってくれたのは、年配のバーテンダーだった。グレイヘアーをオールバックにして、丸く細い黒縁眼鏡をかけている。ここの店主だろうか。客は舌打ちをすると、カウンターの方へ直って酒を煽った。助かった。俺はそこでようやくハイボールに口をつけた。炭酸が喉を刺激する。この一杯でホテルに戻ろう。酔いの醒めた頭で、そう考えた。
 階段を下りて、ビルの裏に入る。埃まみれで薄汚れた壁にもたれると、さっき買った煙草を取り出して火をつけた。ライターの音が室外機とアスファルトの隙間に吸い込まれていく。ゆっくりと煙を肺に入れ込んで、深く息を吐く。見上げた空は随分と狭く、雲に覆われて星は見えなかった。ひたすらに頭の中を空っぽにして、足元に転がった空き缶を見やる。踏みつけられたのか、蹴られたのか。大きくへこみ、中身がこぼれている。腹を殴られ、血反吐を吐く人間を思い浮かべていると、声がかかった。
「一本、くれません?」
彼女だった。カーキ色のMA-1に、黒いスウェット、下は黒いスキニーにグレイのスニーカー。先程結わえていた髪は、ほどかれている。この暗い夜の中に溶けていなくなりそうだ、と俺は思った。無表情のまま、黙って一本手渡す。ついでにライターも渡そうとすると、
「えぇ。火ぃつけてくれないんですか」
とおどけた口調で言われたので、そのままポケットにしまい込んだ。嘘です、嘘です!と慌てる彼女が面白くて、頬が緩みそうになる。引っ込めた手を再び出してやると、彼女はそれを受け取り、おぼつかない手つきでライターをカチカチ鳴らした。紫煙が二本、空へと伸びる。
「吸うの意外ですね」
「俺が?」
「はい。でも、なんか似合います」
「そうかい」
車が通りすぎる音の合間に、互いの息遣いが聞こえた。もう飽きたのか、藤咲は煙草から完全に口を離し、指先で弄んでいる。俺は短くなった吸い殻を捨て、足で火を踏み消した。彼女の手から、所在なさげにしている煙草を取り上げる。
「君には似合ってないよ」
時折近くを通り過ぎる車のヘッドライトが目に刺さる。逆光で見えにくいが、彼女が一拍おいてへらりと笑ったのが分かった。
「コーヒー、飲みたくないですか」
 藤咲に連れられ、自販機のある公園まで歩いた。冷たい月明りが俺たちを照らしている。缶コーヒーを片手に、ベンチに腰かけた。二人の間には、人一人余裕で入りそうな隙間が空いている。
「偶然ですか?」
「何が」
「今日、お店にいらっしゃったこと」
「……こっちの台詞だよ」
ちらりと、彼女を盗み見た。ブラックコーヒーを両手で包むように持ち、前かがみに肘をつきながら飲んでいる。その目がこちらを向きそうになったので、慌てて視線をそらす。何もやましいことはないのに、ドギマギしている自分に嫌気がさした。誤魔化すように話し始める。
「仕事で近くまで来てね。せっかくだから、ふらふらと歩いてたんだ。あまりこちらに来ることもないし。時間も時間だから観光する場所なんかなかったけれど。もう帰ろうかな、と思っている時、バーの看板が見えて」
「入ったら私がいた、というわけですね」
「まあね」
コーヒーを一口飲む。やにが占拠していた口内を、黒い液体が流れていく。熱いものが喉を伝っていく感覚がした。
「私も、初めてあのお店に入った時はそんな感じでした。なんとなく看板が目について、入って飲んでたらアルバイト募集してるっていうから。雰囲気も良かったし、悪くないかなって」
「うん。様になってたよ」
「ほんとですか?嬉しいなぁ」
「お世辞だけどね」
「酷い!」
彼女はけらけらと笑った。二、三他愛のない話を続ける。最近またシャ乱Qのシングルを聴いている話をした辺りで、彼女は何かを思い出したかのようにスマホを取り出した。
「そういえば、連絡先、交換してくださる約束ですよね」
俺は一瞬フリーズした。確かに、前回自分はそんなようなことを言った気がする。二度と会うことはないと思っていたから。けれど、出会ってしまった。しかも、認めたくはないが、自分も少し会いたいと思ってしまった。交換してもいいのだろうか。俺は三十過ぎのおじさんで、この子は大学生だ。一回り以上年が違う。
「あ、ごめんなさい。迷惑でしたか……?」
彼女は、いつかのように小首をかしげた。
「そうじゃない。迷惑ってわけじゃないんだけれど……君はいいの?こんなよく知らないおじさんに連絡先を教えちゃって」
少し不用心ではないだろうか。どう見えているか知らないが、親切そうにしていたって、危ないやつはいるものだ。この子はそれがあまり分かっていないのではないか。俺のこれは余計なお世話などではないはずだ。彼女は、そんな僕をみて、少しむっとした表情をした。
「『知らないおじさん』じゃなくて、常盤さんだから交換したいんですけど」
「その『常盤さん』が『知らないおじさん』だって話なんだけど」
「えぇ~?難しいなぁ」
彼女はわざと頭の悪そうな声を出した。しばらく考えこむ様子を見せた後、俺の顔を覗き込むような格好になった。街灯に照らされて、少し下がった眉尻が見える。肩のあたりでそろえられた髪が揺れた。かすかにシャンプーの香りが届く。
「だめですか?」
末恐ろしい。いままで彼女はどうやって生きてきたのだろう。詳しく聞きたい気持ちと聞いてはいけない予感がせめぎ合った。俺は溜息をつく。
「……いいよ」
それを聞くなり、彼女はやったー!と無邪気に笑った。もうどうにでもなればいい。俺は観念して、残りのコーヒーをグイっと飲み干した。

 東京に戻ってからしばらく、彼女から連絡が来ることはなかった。もちろん、俺からも連絡しなかった。そうでなくても、俺は仕事に、彼女は大学やバイトで忙しいはずで、ちょっとやそっとで会えないような相手のことを考える隙はないはずだった。連絡先を交換したのも、若い女の子特有の気分か何かなのかもしれない。あの子の趣味はどうやら一世代前のものが多いようなので、近くの友人とは話が合わないということも考えられる。そこに、ひょいと俺が現れてしまい、話が出来る友人が出来そうだと舞い上がったのかもしれない。どちらにせよ、そう長くは続かないだろう。そう思うと、肩の力が抜けた。俺は知らない間に、あの子に随分と振り回されているようだ。しばらく出張もないことだし、それほど気にする必要もなさそうに思える。彼女に出会う以前と同じように、俺は仕事に集中した。

「……で、でもその子の彼氏は友達だって言い張るんですって。どう思いますか?」
ぶつかり合うグラスの音。甲高い笑い声。揚げ物とビールの匂い。その全てが混ざり合う。学生時代は安い居酒屋へ飲みに行ったりもしていたが、こんなに騒がしかっただろうか。何もかもシャットダウンして家に帰ってしまいたい。
「先輩、聞いてます?」
後輩の声で我にかえる。彼女はむすっとした顔で俺を見ていた。
「あぁ、ごめん。ぼーっとしてた」
「もう、酷いですよぉ。酔っちゃったんですか?」
「酔ってるのは新島さんのほうでしょ。ほら、水飲んで、水」
空になった彼女のグラスに水を注ぐ。もうすっかり顔の赤い彼女は、重たそうな瞼を何とか持ち上げながらそれを煽った。今日は新島さんに頼まれて、仕事のことで相談を受けていた。彼女は広告営業で、書店に対して営業をしている俺とは仕事内容が異なるのだが、その部署の先輩に俺に聞くよう言われたらしい。最初は人と会話するときに気を付けていることなどごく基本的な話や、厄介な取引先に当たった場合の対処の仕方やなんかを話していた。それが、いつの間にかプライベートの話になってしまっている。
「常盤先輩だったら、彼女がいるのに仕事先の女の人と食事に行ったりします?」
ついに自分の方までボールが来てしまった。どう打ち返したものだか。
「そうだね。打合せとか、何か理由があるなら行くけれど、そういうのがないなら行かないかな。心配させたくもないし」
「ですよねー」
満足そうににんまり笑っている。うまい事ヒットしたようだ。
「携帯はどうですか?見せてって言われたら見せます?」
「うーん。言ってくれたら見せるけど、俺が見たいって言うことはないだろうな」
「っぽいですね。私なら見せたくないけど、でも彼氏のは見たいかもなー。じゃあ、勝手に見られちゃうのは?」
「勝手に見られるのは嫌だなぁ。でも、それだけ不安にさせてるってことなら、しょうがない気もするね」
「じゃあ、気づいても怒らないんですか?」
「『見ないでよ、エッチ!』くらいは言うかもだけど、強くは怒らないかな。勘違いさせるようなことしなきゃいい話だもの」
「いいなぁ。常盤先輩の彼女さんはきっと幸せ者ですね」
「どうだろうね」
一瞬、昔の嫌な記憶が蘇った。栗色の癖っ毛。ワインレッドの口紅。かき消すように、残っていただし巻き卵を放り込む。なぜだか、左手の辺りに視線を感じた。
「もうそろそろお開きにしない?明日も仕事だし」
「そうですね」
新島さんは目を伏せたままグラスの水を流し込んだ。伝票をもって立ち上がる。彼女には半分より少し少なめの金額を伝え、残りは俺が払った。店を出ると、一瞬で顔に当たる空気が冷たくなる。まるでそこに透明な膜があるかのようだ。
「あの、常盤先輩」
「何?」
駅の手前で呼び止められた。振り向くと新島さんは肩にかけた鞄を両手で握りしめている。
「また、お誘いしてもいいですか?」
若干声が震えている気がする。俺は浅く息をついた。
「また相談があったらね」
軽く手を振って前を向く。ここからは、俺と彼女は反対方向だ。俺は、振り返らずに歩いた。帰り道、広告営業をしている同期に連絡をした。
「新島さん、仕事について困っていることがあるらしい。今日相談された。何かあれば助けてやってほしい」
送信してすぐに既読がついた。おそらく同僚もスマホを眺めていたのだろう。そのまま歩いていると、ピロンと通知が鳴る。
「わかった。でもなんでお前?俺に言いにくかったのかな……?」
「そんなことないと思うよ」
スマホをポケットにしまい、歩くことに専念した。曇っていて、月は見えなかった。

 年末も間近にせまり、春頃の販促フェアの企画を吟味している頃、彼女からのメッセージは届いた。
「近々東京に行くんですけど、会いませんか?」
仕事から帰宅してだらだらとネットサーフィンをしていた俺は、通知画面だけで文面を確認し、とりあえず既読を付けずにスマホを置いた。これはどうしたものか。なんとなくスマホと距離をおいてベットに腰かける。すっかり忘れているものと思っていたが、そうでもないようだ。逡巡したのち、俺は十五分ほどおいてから短く「いいよ」とだけ返した。立ち上がってベランダに出る。冷たい風が頬を叩き、体の芯から冷える感覚がした。すっかり夜は冷え込むようになっている。今年は関東でも大雪になるそうだ。そうなれば、ニュース番組ではキャスターたちが、長靴での滑りにくい歩き方を大真面目にお知らせするのだろう。雪国出身の自分から見ると、なんだかおかしな光景だ。近くのコンビニでも、クリスマスケーキの予約開始を知らせるポスターが随分前から貼られている。気の早い店では電飾まで施されているほどだ。まさか。そこで一つの可能性が頭をよぎる。クリスマスを一緒に過ごそうなどと言い出しはしないだろうな。それはまずい。部屋に戻り、メッセージを付け足す。
「タイミングが合えばね」
鞄から手帳を取り出し、イブと当日の予定を確認した。十二月二十五日は重要な会議があるので、二十四日は残業をすることになるだろう。二十六日は忘年会なので、その準備もある。ほっと息をつく。決定的なことは避けたかった。彼女のことは嫌いではないし、こんなことを考えるなんて自意識過剰な気もするけれど、一応の線引きはしておくべきだろう。五分ほどして返事が返ってくる。
「二十七日なんですけど、大丈夫そうですか?」
見事に何の予定もない日だった。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。キャップを空けながらスマホを操作した。
「その日なら今のところ大丈夫」
今度はすぐに既読がつき、簡単なメッセージと可愛らしいスタンプが返ってきた。自分も無難なスタンプを送り返す。二口ほど飲んだミネラルウォーターを冷蔵庫に戻すと、その日はいつもより早めに入眠した。

 池袋駅東口を出てすぐに振り返ると、大きな掌の中に母子が収まっている像がある。俺たちはその前で落ち合うことになっていた。待ち合わせは二十時。地下一階にある梟の像の前には俺のように誰かを待っている人々が多くいたが、母子像の前にはほとんどいなかった。それもそのはず、外気温は六度、天候は曇り。今年はホワイトクリスマスにこそならなかったものの、気象予報士は近々雪になるだろうと告げていた。吐く息は白い。コートのポケットに忍ばせたカイロを手で揉んだ。近くの喫茶店や本屋など、屋内を提案すればよかった。池袋駅で待ち合わせようという話になった時、寒さのことなど一切考慮せず、ネット検索で上の方に出てきた記事を参考に場所を決めてしまったのがいけなかった。彼女も彼女で西口公園に集合しようなどと言っていたので、しょうがなかったとも言える。若い女の子をあそこで待たせたくはなかった。
「常盤さん」
後ろから声が聞こえて振り返る。今日はリクルートスーツにベージュのコートを羽織っていた。ストッキングは履いているのだろうが、ひざ丈のスカートとパンプスが寒々しい。
「また先を越されちゃいましたね」
「十年早いよ」
へへへと笑うと、彼女はわざとらしく二の腕をさすった。
「ここ寒いんで、早く駅に入っちゃいましょ」
「あ、戻るの?」
「駅から直で入れるとこなんですよ」
そういえば、行きたいところがあると言っていた。俺も早く温まりたかったので、彼女についてその場を後にした。
 池袋駅の西側にある、駅と直結のビルの四階にそれはあった。本屋さんと喫茶店をかけ合わせたようなお店で、店内は六つのエリアに分かれている。シンプルでありながら隅々までのこだわりを感じさせる内装で、落ち着いた雰囲気の場所だった。藤咲さんは、まっすぐ入口の左手に向かう。「シークレットな本屋さん」という名前のスペースだった。棚にある本にはすべてカバーがかけられ、書籍の表紙はおろか、タイトルも作者もわからないようになっている。簡単な紹介文と値段だけが記載されていた。
「ここに来たかったんです」
「なるほどね」
題名をあえて隠して本を売る書茶房。噂には聞いていたが、実際に来るのは初めてだ。付き添いで来るぐらいの気持ちだったが、実際の本棚を目にしてからは、自分の気分に会いそうな本を探すのに夢中になってしまった。それぞれレジを済ませると、奥にあるラウンジに向かった。フカフカのソファーに向かい合って腰を下ろす。
「今日インターンに行ってきたんですよ」
「ああ、それでスーツなんだ」
「そうです、そうです。それで、せっかくだしちょこっとだけ観光しようかなって」
本当は西口公園も見てみたかったんですけどね、などと言いながらコーヒーをすする。大学生だということは知っていても、学年や年齢は知らないことを思い出した。就活を始めるということは三年生だろうか。インターンシップはうちの会社でも行われているが、今年は俺の担当ではないので頭になかった。
「こっちで就職するの?」
「うーん。そう決めたわけじゃないんですけど、本社がこっちにあるので。できれば関西で働きたいですけどね」
「ご実家そっちのほうだったっけ」
「そうなんです。まぁ、それにインターンは数行っといたほうがいいかなって」
「それも大事だね」
「それにしても、クリスマスが終わると一気に年末感出ますよね」
「そうだね。でも、ハロウィン終わってすぐのクリスマスへの移り変わり方は毎年ちょっと笑っちゃうな。切り替え早っ!って」
「百円ショップとかまさにそうですよね」
「年末は紅白とか見るの?」
「見ますよ!椎名林檎とか出ますからね」
「あぁ、聴いてそうだよね、あなた」
「どういう意味なんですかそれ」
ひとしきり談笑し、自然と会話が止まったところで、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「なんで俺を呼んだの?」
この場所なら、特別一人だと来にくいということもなさそうだ。わざわざおじさんを誘う必要はないように思える。そんな風に考えてしまう俺はひねくれているだろうか。藤咲は背中を丸め、両手で包み込むようにカップを持っている。机の上を見たままで、彼女は答えた。
「最初は一人で来ようと思ったんですけど、思い出したんですよ。おばあちゃんが、『遠くにおる友達とは会える時に会っとけ』って言ってたの」
コーヒーの湯気は、もうほとんど見えなくなっている。液面で俺の顔が揺れた。
「俺はお友達というわけか」
「え、違うんですか?」
さも当然のように言ってのける。頭が痛い。そこまで大した意味はないのかもしれない。俺はわざととぼけてみせた。
「いや、もう大親友」
「それは言いすぎ」
笑った顔を見てほっとする。俺は何と返してほしかったのだろう。こんなことははっきりさせなくていい。そう思った。

 それ以来、関西に出張がある際は、彼女のいるあのバーによることにした。出張はそう頻繁にあるわけではないし、いつも二人で話すわけではなかったけれど、タイミングが合う時は食事に行くようになった。それでも、それ以外の時は全く連絡を交わすことはない。彼女が大学を卒業すれば、もう会うこともないのかもしれない。つかず離れずの関係性は心地よかったが、二人の結びつきはそれだけ薄く弱々しいものにも思えた。それならそれでいいと自分に言い聞かせつつ、寂しくなる自分に蓋をした。

  二年後の三月、久しぶりに藤咲からメッセージが届いた。東京で就職が決まったそうだ。てっきり彼女は関西で就職するものと思っていたので、驚いた。俺は、少々迷いながらも、お祝いをさせてほしいと提案した。彼女からは、スヌーピーが躍るスタンプが返ってきた。自分から彼女を食事に誘ったのは、あのエレベーターで出会った日以来だった。
  
「久しぶりですね」
入社式を終えたころ、俺と藤咲は焼肉屋で会うことになった。もちろん、彼女の卒業と就職を祝うためである。
「東京の生活には慣れた?」
「全然ですよ。大学生の時も都市の人の多さに驚いたけど、もう別格。どこに格納されてるんだろうってくらい」
「格納って」
彼女は時々変わった表現をする。もっとも、彼女に限らず若い子はみんなそうなのかもしれないが。
 彼女の勤め先は俺の働く会社とそう遠くなく、会おうと思えばいつでも会える距離にあるようだった。東京には行きたいところが色々ある、と彼女は目を輝かせていた。
「どこに行きたいの?」
「まずは、寄生虫博物館!」
「一個目そこなんだ」
「行ってみたいんですよぉ」
相変わらず選ぶ物が人と少しずれている。けれど、彼女のそんなところも俺にとっては好ましかった。
「そうだ、はい、これ」
おもむろに、用意していた紙袋を取り出す。ぱちくり瞬きをしている彼女にそれを手渡した。
「お祝いの品。つまらんこともないものですが」
「え、いいんですか。ありがとうございます!うわー、なんだろう」
「開けてみて」
中には、贈答用のチョコレートのような箱が入っている。そこに眠るのは、ボールペンだ。シルバーのペン先に、鈍く光る黒色の持ち手、端の方に掘られたK.Fのイニシャル。随分悩んだが、結局はちょっと良いボールペンを渡すというところに落ち着いた。形の残るものをあげるという所に多少不安はあったけれど、これならあっても困るということはないだろう。彼女は黙ってそれを見つめていた。
「やっぱりつまんなかった?」
「いいえ、とっても嬉しいです!ありがとうございます、用意してくださって」
「良かった」
彼女はすぐににっこり微笑んだ。ほっと安堵の息をもらす。
「大切にしますね」