藤咲の黒いペン

「藤咲さん、ありがとう。ごめんね、急に頼んだのに」
「いいよ、このくらい。早く終わらせちゃおう」
 私は同僚の内村くんの残業を手伝っていた。彼は優秀で仕事が早いので、同期の中では彼だけが特別に、ある企画の手伝いを任されていたのだ。そのプレゼンが直前に迫っていた。今日はそのための資料の用意が必要だったらしく、申し訳なさそうに私に手伝いを求めてきた。本当は帰りたかったが、先輩方も帰る中、一人で残業をする姿を見るのは忍びなく、同じ部署のよしみで手伝いを引き受けたのだった。今恩を売れば今後返してくれるかもしれないという打算が働かなかったとは言い切れない。
「やっと終わったー」
「お疲れさま。ほんとありがとう」
「いいってことよ」
  小一時間ほどして、ようやく全員分の資料をまとめることができた。回した首がポキポキ音を立てる。オフィスに残っているのは、私たち二人だけだった。
「それで、この後なんだけどさ、よかったらご飯でもどう?お礼におごるよ」
提案を受け、一瞬動きが止まる。けれど、それを悟られないように、私は表情を作り直し、目の前で手を合わせた。
「ごめん。約束があるんだよね」
「そっか。じゃ、しょうがないね。また明日」
「うん。また明日」
内村くんと別れて家路につく。本当は約束などしていなかった。空を見上げる。雲の端が月にかかっていた。

 私には叔父がいる。母親の年の離れた弟で、私は重敏くんと呼んでいた。親戚の集まりなどがあるときは台所で忙しくしている母の代わりに遊んでくれていた。私は叔父によく懐いた。小学生の頃、友達に好きな子はいるのかと尋ねられて、
「重敏くん!」
と言ったらしい。低学年の間はそれで許されたが、高学年になってくるとそれは通用しなくなっていった。
「そうじゃなくて、クラスの子で好きな人いないの?」
「叔父さんが本気で好きってこと?きも」
「言いたくないからそう言ってるだけだよね」
自分が重敏くんを好きな気持ちと、同級生が聞きたがっている「好き」はどうやら違うらしい、とそのときようやく気がついた。けれど、私は同じ学年の男の子たちに興味はなかった。大人で博識な重敏くんと比べると、どうしても子供っぽいとしか思えず、友達以上の好きを感じることはなかった。
 中学生の頃、仲が良かった男子に告白されたことがあった。放課後の教室でいつものように男女数人で喋っていたとき、自然と何人かが席を外し、二人きりになった。なんとなくいつもと違う空気感に私が戸惑っていると、緊張した面持ちで「好きだ」と言われた。何と言っていいかわからず、「ありがとう」とだけ返すと、その男の子は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。次の日から、私は彼の「彼女」になっていた。後から聞くと、友人はみな彼が私を好きだと知っていて、わざと二人きりにしたのだそうだ。私の知らないところで、自分に関わる決定がなされていたという事実に薄気味悪さを感じた。その後、一ヶ月ほどして彼とは別れた。
「お前、本当は俺のこと好きじゃないだろ」
確かに彼のことは好きだった。でも、それは友達としての好きであって、彼の言う「好き」とはやっぱり違うのだった。その一件があってから、私はその子と距離を置くようになった。クラスメイトの恋バナについて行けず、恋愛小説や恋愛映画を試してみたりもした。作品としては楽しめるが、他の女子のようにキュンキュンする、共感するといった感情はなく、自分とは別の世界の出来事であるかのように感じていた。恋愛に関して、私と友人との間には見えない壁があるかのようだった。
 アロマンティック・アセクシャルという言葉を知ったのは、高校に入ってからだった。高校生になってからも、度々重敏くんとお茶していたので、恋人はいないのか、と心配されたのだ。
「俺は構わんが、おじさんとばかりいていいのか?」
中学生の頃の話と、恋愛する気になれないことを重敏くんに話した。一つずつ言葉にしていくと、思っていたより自分が不安を感じていたことに気づいた。最後の方は震える手を叔父に悟られないように握りしめて隠していた。静かに話を聞いてくれていた重敏くんは、私が話し終わると、少し考えてから性的指向の話をしてくれた。「アロマンティック・アセクシャル」というラベルが自分に当てはまるかはよくわからなかったが、恋愛感情のない人もいるのだと知って安心した。なにより、重敏くんもそういう意味で人を好きになることがないとわかったのは大きかった。より一層、私の心は彼に支えられることとなった。
 そんな彼も、私が大学生二年の頃に婚約者ができた。その話を聞いた時はかなりショックを受けたが、本人曰く、
「立場上あの家と結びつきがあると都合が良かったんでな。政略結婚ってやつだ」
ということらしい。合理主義の重敏くんらしくてほっとした。けれど、その時から私は重敏くんではなく「叔父さん」と呼ぶようになった。会う回数もだんだん減らしていった。叔父さんが忙しかったのもあるけれど、奥さんに遠慮する気持ちもあったのかもしれない。
 そんな時に出会ったのが、常盤さんだった。多分、私は無意識のうちに「第二の叔父さん」を求めていた。常盤さんは叔父とは全く似ていなかったけれど、なんとなく近いものを感じた。それは大人ゆえの落ち着きとか、自分には手を出して来なさそうという安心感から来るものだと考えている。連絡先を交換してもらえなかった時はもう二度と会えないかと思ったので、バーで再会したときは嬉しかった。その日の一週間前、叔父は婚約者と正式に籍を入れていた。何かが変わるかもと吸った煙草は、苦くておいしいと思えなかった。それ以来煙草は吸ってない。

  大学を卒業する時、叔父は私に万年筆を贈ってくれた。黒を基調としたデザインに、シルバーのペン先。重みがあり、太い持ち手の端には、S.Fと刻まれている。恩師からのプレゼントだそうだ。
「いただいていいんですか、そんな大切なもの」
「いいんだよ。俺は苗字が変わるんでな。お前が使ってくれ」
日常的に万年筆を使うことはなかったが、私はそれをお守りとしていつも持ち歩いた。叔父がついてくれているようで、心強かった。 だから、常盤さんからそっくりなデザインのボールペンを貰ったときは驚いた。同時に、不思議な繋がりを感じた。実際は偶然なのだろうけれど。常盤さんに貰ったペンは、無くしたくなくて家で使うことにした。

 常盤さんは面白い人だ。この間一緒に歩いていた時、子供連れの親子が前を歩いていた。抱きかかえられた男の子と目が合うと、常盤さんは笑顔で手を振った。男の子も嬉しそうに振り返す。しばらく行先が同じだったので、何度もそれを繰り返していた。
「気に入られちゃったな」
なんて笑いながら。電車やなんかでも、赤ちゃんと目が合うと変顔をしてしまうらしい。
「ほら、目が合うと何か反応しなくちゃいけない気がするじゃない?赤ちゃん相手に会釈も違うしさ」
その理屈はよくわからなかったが、ようはサービス精神が旺盛ということなのだろう。
 信号待ちをしているとき、無言で拳を二つ私の前に出してきたことがあった。どうやら選べということらしい。向かって右側を指さすと、そちらの手を開く。中には何も入っていなかった。
「じゃあ、こっちは?」
と反対側の手を指すと、同じようにその手を開く。中には何も入っていない。なんなんだ、と拍子抜けしていると、無言のまま掌を広げて待てのポーズ。その手で私が最初に指定した手を指さすと、握り直して意味ありげに振る。表情も手つきも、まるで手品師のようだ。私がその手に注目していることを確認し、拳を開いた。でも、中にはやっぱり何も入っていない。
「なんですかそれ」
こらえきれずに笑ってしまう。それを見て、常盤さんは満足げに微笑んでいた。
 常盤さんは感情を素直に表す人だ。もうすぐ誕生日だということをちらっと聞いた時、普段お世話になっているお礼の印に、ちょっとしたお菓子を送った。近くのケーキ屋さんで買ったクッキーなのだが、常盤さんはすごく喜んでくれた。
「えー、いいの?ありがとう。嬉しいなぁ。用意してくれたんだ。こういうクッキーが一番おいしいよね。え、つまらないものですが?気にしなくていいよ、そんなの。準備してくれたって事実だけで嬉しいもの」
常盤さんは実家が貧乏だったようで、誕生日プレゼントを両親に貰ったことがないのだという。誕生日ケーキも用意できず、代わりにドーナツにロウソクを置いていたそうだ。
「ドーナツの真ん中に穴があるでしょ?そこにロウソクを置くのよ。これがまた上手いこと置けないんだな。しかも、そのロウソクときたら仏壇に供えるやつでね。ほら、あの白いやつ。あれをひょいッと取って来てね、新品のやつを。で、置くわけ。でも、直径小さいからなかなか置けなくて、倒れちゃうのよ、何回も。火ぃ点けるのに危ないから、最終的にこう、父親が持って、それを俺が吹き消すの。もったいないからっつって、翌日それが供えられたりね。これが仏教かって……何の話だっけ?」
とにかく、常盤さんは幼少期の経験から、人に誕生日を祝われるとすごく嬉しいのだそうだ。私にはない感覚だ。面白い。
「よかったら、カオルちゃんの誕生日もお祝いさせてね」
いつの間にか、常盤さんから「カオルちゃん」と呼ばれるようになっていた。それだけ私に心を開いてくれているようで、単純に嬉しい。けれど、私が「つとむさん」と呼ぶのは違うような気がして、ずっと常盤さんのまま変えずにいた。
  
「藤咲さん、あの人って彼氏?」
入社して半年、ようやく仕事にも慣れてきた。同僚ともそこそこに打ち解け、ランチを一緒にとる友人もいる。今日は最近新しくできたというパスタのお店に来ていた。
「あ、それ私も気になる」
「どの人?」
「ほら、この間会社の近くまで迎えに来てた人!あの後二人でご飯食べに行ったんでしょ?」
「あぁ、常盤さんか」
カルボナーラをフォークに巻き付けながらその時の記憶を引っ張り出す。一度だけ、偶然会社の近くまで来たというので、出口付近まで迎えに来てもらったことがあった。その時のことを言っているのだろう。
「内村くんの誘いを断ったってのも聞いたよー。『約束があって……』って彼のことじゃないの?内村くん、『振られた』って嘆いてたよ」
「行ったけど。でも、彼氏じゃない」
「え、そうなの?でも絶対気があるって!そうじゃなきゃあんなことしないもん」
「そうだよね。可愛らしくかけよって行くとこ見てたんだから」
「そんなことしてないよ」
ベーコンにフォークを刺す手に力が入った。彼女らに私たちの一体何が分かるというのか。
「結構かっこいい人だったよね」
「うんうん。実は昨日スーパーで見かけてさ。見たことある顔だけど誰だったかなぁ、と思ってたら、目が合って。笑って会釈してくれた」
「それ、困ってたんじゃないの?」
「いや、優しさだって」
私をよそに談笑は進む。男と女が二人でいるとすぐに話がそちらに向かう。私はこれが昔から苦手だった。そういう人たちもいる、と割り切れるようになったのは大人になったのか、諦めが上手になったのか。私に恋愛感情がないことを、叔父以外の誰かに知ってもらおうとは思わなかった。私が知っている。それで十分だと思っていた。ただ、常盤さんとの関係を恋仲で片付けられるのはどうも納得がいかなかった。
 とはいえ、常盤さんにわざわざ同僚の目につく場所まで来てもらったのは、そう勘違いしてもらうためでもあった。内村くんに仕事と関係のない話を振られることはなくなり、ついでに恋人の有無を尋ねられることも無くなった。内村くんは明るくて話も面白い人だったけれど、中学生の時付き合っていた男の子のことを思い出してしまい、どうもダメだった。自意識過剰なのかもしれないとは思ったが、それでも男性を警戒する気持ちを抑えることは出来なかった。
  恋愛関係になることを拒むと、それまでの仲はなかったことになる。これは私が学生の時に学んだことだ。どうせそうなってしまうなら、最初から仲良くならなければいい。もちろん、仲良くなる男性が皆自分に好意を向けるわけじゃないことは理解していた。けれど、やっぱりどこかで無理が生じる。高校生の時、隣の席の瀬端くんと仲が良くなった。同じ深夜アニメを見ており、意気投合したのだ。それから、一、二回一緒に帰ることがあった。数日後、友人から
「カオルちゃん瀬端と付き合ってんの?」
と訊かれた。付き合っていないと返すと、
「でも一緒に帰ってたじゃん」
と不思議そうな顔をされた。私は驚いた。ただ一緒に道を歩くだけで、恋人のように見えるらしい。彼とは、私は一切そんなつもりはなかった。
「なっちゃんと私も一緒に帰るじゃん。私たちは付き合ってるように見えるの?」
「いや、それはないでしょ。女同士なんだから」
どうやらそういうものらしい。その後、男子と二人で帰るということはなかった。男子のと距離を意識的に一定に保つようになったのは、その頃からだったと思う。
 そんな私が常盤さんにだけは心を許していたのは、年上だからということもあるけれど、一番は彼が恋愛色を見せないようにしていたからだろう。彼は好きなタイプを聞かなかった。好きな芸能人を聞かなかった。少しでも身体が触れることはなかった。二件目以降に誘うことはなかった。おそらく、自分がおじさんであることに引け目を感じていたのだと思う。フレンドリーである一方で、こちらから近づこうとしても、簡単には届かせない雰囲気を醸し出していた。私にはそれがありがたかった。彼との間にある、居心地の良い関係性を失いたくはなかったからだ。
  けれど、常盤さんが私を「カオルちゃん」と呼ぶようになってから、明らかな変化があった。距離感が近くなったのだ。物理的ではなく、心理的に。髪を切ったり、メイクを変えたりしたら、すぐに気づいてくれた。
「なんか雰囲気違うね?いや、可愛いよ。キュート。よく似合ってる」
私が仕事でミスをした時には、優しく話を聞いてくれた。
「それは良くなかったね。難しいよね、仕事。でも、今回へました分、今後気を付けたらいいんだよ。大丈夫、大丈夫。偉い人も昔はみんなへっぽこなミスしてるんだから。……多分」
冗談っぽい口調に隠した好意に、気づかない私ではなかった。けれど、彼は決定的なことは言わない。年齢がネックなのか、単に臆病なのか。あるいは、娘や妹のように思ってくれいるだけなのか、私にはわからなかった。どうあれ、彼から今の関係をがらりと崩すことはなさそうだった。あくまでも、慎重に、ゆっくりと歩を進めている。私はそれに気づいていながら、何もしなかった。そのつもりがないことを知られれば、彼はいなくなってしまう気がした。確信に触れてしまったが最後、確実に二人の関係は変わってしまう。どちらに転ぶにしたって。
 上京してから、初めて冬の気配がし始めた。十一月の中頃、私と常盤さんは仕事帰りにラーメンを食べに来ている。この頃は一、二ヵ月に一回程度会うようになっていた。彼から誘われることもたまにはあったが、大抵は私から誘っていた。担々麺を平らげ、餃子をつついていた常盤さんが、思い出したように口を開く。
「来月は忙しくて後半まで会えないと思う。下手したら年明けになるかも」
「え、そうなんですか」
残念さを前面に出した私の顔を見て、常盤さんは苦笑した。
「早めに決めとけば空けられると思うけど」
「じゃあ、そうしましょ!」
スマホのカレンダーを見ながら、都合の悪い曜日・日にちを互いに言っていく。思いのほか噛み合わず、二十五日と二十六日しか余らなかった。常盤さんが私を方をうかがう。
「俺はどっちでもいいけど、あなたどう?」
正直どちらでもよかった。私は腕を組んでうなる。
「うーん。二十五日かな」
年末も近いことだし、どちらかと言えば早い方がいいだろう。何気なく言ったが、常盤さんは少し意外そうだった。
「え、いいの?」
「何がですか」
「クリスマス、俺と過ごして」
完全に抜けていた。どうしよう。咄嗟に不機嫌そうな顔を作る。
「嫌なんです?」
「違う違う!嫌じゃないよ。そうじゃなくて、俺と過ごしちゃっていいのって」
常盤さんは両手を振って弁明した。必死な常盤さんの姿がおかしくて、声を上げて笑ってしまう。
「じゃあ、二十六日にしましょう」
「あぁ、オッケー。空けとくよ」
手を下ろし、そう言った常盤さんの声は少し寂しそうだった。私は、彼と目を合わせないように味噌ラーメンの汁を蓮華ですくった。

 十二月二十六日は曇りで、星は一つも見えなかった。もとより、夜も明るい東京で星を拝むのは難しいのだが。冷たいナイフのような風が吹き抜けた。
「うわ、さっびぃ」
常盤さんはコートのポケットに両手をつっこみ、マフラーに顔をうずめた。大げさなくらい首をすくめている。
「うわ、常盤さんジャミラみたいですよ」
「オギャー」
「なんですか、それ」
「今わの際に万国旗を汚すジャミラ」
「いや、わからんわ」
冬の時期、有楽町駅前の東京交通会館から大手町仲通りまでは、街路樹を用いてイルミネーションが行われている。クリスマスは過ぎたけれど、「せっかくだから」という常盤さんの提案に乗って、駅から歩いてきた。
「いやぁ、クリスマス過ぎると急に年末感が出るよね」
「それ去年も言ってましたよ」
「そうだっけ」
「うわ、老化ですか。怖いなぁ」
「もう僕おじいちゃんだからね」
すっかり馴染んだこの応酬も、つい一、二年前にはなかったものだ。このシャンパンゴールドの絢爛も、常盤さんがいなかったら、私は見に来ることはなかっただろう。眩い光の並木に目を細めた。
「多分来年も言うんでしょうね、そうやって」

 「来年」という言葉を聞いて、なぜだか俺は心臓が痛くなった。彼女にとって何気ない一言だったのだろうが、彼女が見る来年に俺っもいるのらしい。俺は、それがどうしようもなく嬉しかった。思いがけず、温かいものがこみ上げる。あぁ、俺は本当にこの人のことが、
「好きだな」
「え?」
はっとして口を押さえる。感極まって、ポロっと口に出してしまった。どうやって誤魔化すべきか迷っていると、カオルは怪訝な目で俺を見た。
「なんでタイピング練習?」
「違う!それは寿司打。俺は好きだって……!」
言い終わった瞬間、しまったと思った。彼女と目が合う。俺が立ち止まると、彼女も一歩前で止まった。左手で顔を覆い、うなだれる。完全にやってしまった。彼女の顔が見られない。言うつもりはなかった。少なくとも、こんなにかっこ悪い言い方をするつもりは。カオルは何も言わないでいる。ただ、つむじの辺りに視線を感じた。もう、こうなったら腹をくくるしかない。呼吸を整えると、覚悟を決めて顔を上げた。彼女の目をまっすぐ見る。
「あなたが好きです。付き合ってください」
心臓はどくどくと脈打っていた。一方で、体は芯から冷たくなっていくのを感じた。彼女の唇が音を漏らすまでの数秒間が、やけに長く感じた。

 ついにこの日が来てしまった。常盤さんの真剣な瞳を見て、ある直観が頭をよぎった。断ったら二度と会わない気だ、この人。なぜだかわからないが、根拠のないその予想は一瞬間に頭の中を占拠し、私は恐ろしくなった。この人との縁を失いたくなかった。
「はい」
気づけば、私の唇はそう発音していた。一拍遅れて、常盤さんの目が見開かれる。
「本当に?」
固まった筋肉を無理やり動かして口角を上げた。私はいつものように笑えているだろうか。
「もう一回言わせるんですか?」
わざとらしく首を傾げると、彼はぎこちない笑顔を作ってみせた。
「いや。ははは」
 その日、どうやって家まで帰ったか、私は覚えていない。気がつくと朝だった。昨日のことは夢だったろうか、と期待するも、スマホの通知にそれはうち砕かれる。
「昨日はありがとう。改めて、よろしく」
迷いに迷って、結局「こちらこそ!」と返した。スマホをベットに放り投げる。何が「!」だ。深く息をついた。
 ずるい。私はずるい。ベットの中で考える。私は告白を断らなかった。自分に嫌気がさす。相手に同じ気持ちを返せやしないのに。わかっていながら、好意があるふりをした。答えるつもりのない感情を、相手には持ち続けてほしいだなんて、わがままな考えが自分の中にある。それがたまらなく嫌だった。
「あー、酷いやつだな、あたしは」
何も考えないように、目をつむった。