「ねぇ、私を殺してくれない?」
 彼女の囁きが部屋の中に転がった。月明りは乱れたシーツを青白く照らしている。外からかすかに車の走行音が聞こえるほかは、何の音もしない。彼女の言葉はなおも転がる。拾わないでいる僕に向かって。
「罪を背負ってほしいの」
 彼女の方に向き直り、顔にかかる髪をよけてやる。少しだけ八の字に歪んだ眉と、濡れた瞳があらわになる。
「……お願い」
身勝手だ。自分のことしか考えていない。自分が楽になることしか考えていない。その願いが叶った後、相手がどれだけ苦しむことになるのか、てんで分かっていない。分かったうえで無理を言っているのなら、なおのこと悪い。悲しいことに、そんな自分勝手な彼女のことが、僕はたまらなく愛おしかった。
「わかった。だけどその代わり、約束してね。僕が殺すまで死なないで」
彼女は微笑み、僕の肩に頭を乗せた。僕はそんな彼女を抱きしめる。肯定も否定もしていない。どこまでも身勝手な人。僕はこの人を愛している。

 人が生涯を終えれば、その死は生きている人のものになる。自分の死は経験できないからだ。とはいえ、僕がこの人を殺したとしても、彼女の死は僕だけのものにはならない。ただ、この人を殺した罪は僕だけが背負う。この人はそれを望んでいる。きっと、なにも本当に殺すとは思っていないのだろう。僕もそのつもりはない。安心するために、安心させるために言葉を交わす、言わば儀式のようなものだ。そんな風にして、僕は時々まだ見ぬ罪を背負う。不健全な関係。不確かな契約。薄暗い部屋だけが、そんな僕らを甘やかしてくれる。飾り気のない家具に見守られながら、僕らは眠りについた。

 目が覚めると、ベッドに一人寝ていた。腕を伸ばしても、手に当たるのは冷たいシーツだけ。血の気が引く。一瞬呼吸ができなくなる。まさか。起き上がって部屋の中を探す。努めて冷静に。キッチン、ベランダ、トイレ。いない、いない、いない。着替え、歯ブラシ、スマホ。ある、ある、ある。けれど、玄関に靴がない。
「……」
 あったはずの靴を見つめて立ち尽くす。指先が冷たくなっていくのを感じる。脳みそが空回りする。おかしい。昨日のあの答えは良くなかったのだろうか。待ちきれなくなってしまったのだろうか。早く行かなきゃ。どこへ?もしかするとすでに――。
ガチャ
「ただいま……ってうわ、びっくりした」
ドアの向こうから彼女が現れた。
「起きてるじゃん。おはよ」
「どこ行ってたの」
「ん?コンビニ。朝ごはん買いに」
あとこれも。そう言って、彼女は小さな箱を取り出す。いつもの白いウィンストン。
「禁煙してるんだってば」
「あ、そうだった。ごめんごめん」
 煙草を引っ込めた彼女を抱きしめる。驚いた彼女は、それでも僕を押しのけようとはしない。
「うわわ。なになに」
「スマホくらいもっていけよ……」
この人は今確かにここにいる。腕に力がこもる。彼女も僕の背中に腕を回す。幼い子をあやすように、ぽんぽんと叩かれた。
「ねぇ」
「ん?」
「おはよう」
抱きしめた力を緩めて、目を合わせる。そういえば、まだ言ってなかった。
「……おはよう」
 満足気に微笑む顔は、昨日の言葉と結びつかないくらい穏やかで、でもやっぱり僕の愛するその人なのだった。