ザクッザクッ
じんわりとかいた汗が、額をつたって頬まで流れ落ちる。
 ザクッザクッ
息が上がる。酸素を求めるようにはくはくと動かした口の中に、つたった汗が入り込んでくる。
 ザッ
 スコップを地面に突き立て、額をぬぐった。この蒸し暑さは霧雨のせいだけではないだろう。吸い込んだ息は、湿り気を帯びている。濡れた落ち葉と木の匂いが、肺一杯に充満した。ちらり、と穴の横にあるそれを見やる。こんな静かな森の中にはそぐわない、それ。毛布にくるまれ、更にビニールの敷物に包まれ、何重にもガムテープを巻かれている。そいつが動き出し、自分に襲い掛かる妄想を、脳みその端で擦り切れるほどに繰り返していた。

 彼女に出会ったのは、三年前のことだった。大学の仲間との飲み会で、彼女はつまらなそうに酒を飲んでいた。その横顔が、なぜだかとても気になったのを覚えている。それから、彼女と俺はよくサシで飲むようになった。彼女と俺は気が合った。そういう関係になるのも、時間の問題であった。
  大学を卒業してからは、同棲を始めた。帰った家に人がいることのありがたみをひしひしと感じた。同棲を始めてからは、二人で家飲みをすることが増えた。おっちょこちょいな同僚の話、怒りっぽい上司の話、行ってみたい旅行先など、たわいない話を肴に飲んだ。俺は幸せだった。

「私、子供はほしくないの」
その日も俺たちは酒を飲んでいた。彼女は随分と酔っていたようだ。普段は触れることのない話題に流れていく。同じく酔っていた俺はその流れに身を任せていた。
「だって、生まれたくて生まれたわけじゃないんだもん。二十歳になった時、思ったんだよね。『ああ、まだあと六十年も生きないといけないんだ』って。まだ、二十年しか生きてないんだなって思った。私さ、ジェットコースター乗れないんだ。高所恐怖症だから。無理やりジェットコースターに乗せられてる気分なんだよ、生きてるって。怖いし、終わりまで止まらないし、途中で降りたら痛そうだし。最悪でしょ。これじゃあ、子供を産もうなんて考えにはなるはずがないよね」
彼女は自分の皿に盛った唐揚げに、レモンをかけながら話した。何敗目かの生ビールを口に運ぶ。俺の唐揚げには何もかかっていない。
「まあ、これはネットで見た例えなんだけどね。分かりやすいでしょ」
彼女は口元だけで笑ってみせた。俺は適当に相槌を打っていたが、正直なところ半分くらいは分からなかった。俺はジェットコースターが好きだったからだ。数学ができるやつに、出来ないやつの気持ちはわからない。逆もしかりだ。一つだけ、生まれたくて生まれたわけじゃない、というところだけは共感できる。生きたくて生きているわけではないのに、世の中はやりたいことだの楽しむことだのと口を出してくる。なにかと前向きであることを求めてくる。自己肯定感の文字を見ると吐き気がする、と彼女はこぼしていた。さりとて、それで首を吊ってしまおうなどとは考えてはいないのだけれど。俺は彼女の考えを尊重しようと思った。子供については特段ほしいとは思っていなかったのもあるけれど、一番は彼女もまた、俺を尊重してくれるからだった。俺も彼女も、同じように、一人の人として関わっているような気がしてがして、それがひどく心地よかった。

 その日は突然訪れた。彼女が自殺したのだ。それを見つけたのは、夕飯の買い物を終え、帰宅してすぐのことだった。ドアノブにベルトをひっかけて、ドアにもたれるようにして事切れていた。机の上には、きわめて事務的な遺書とも言えないような書き置きが遺されている。葬儀のこと、家族の連絡先、切れている調味料、そして、俺には自由に生きてほしいこと。俺は泣いた。わけがわからないまま泣いた。なぜ彼女が死んだのか、なぜ自分に何も言ってくれなかったのか、なぜこうなる前に気づけなかったのか。俺は何もわからなかった。夕飯になるはずだった玉ねぎや鶏肉が、ごろんと音を立てて床に落ちた。あとから知ったことだが、その一週間前、彼女が愛読していた漫画の連載が終了したそうだ。彼女が考えていることはいつも半分わからない。
  
 穴を掘り終えると、俺はそこに横たわってみた。降りやまない霧雨が己の顔を満遍なく濡らしていく。土は意外と固く、寝心地は良くなかった。濡れた土の匂いにはもう慣れている。目を閉じ、静寂に耳を澄ませた。聞こえるはずのない声を求めて。
  彼女が亡くなる前の日の夜、「愛してる」と彼女は言った。いやにまっすぐ伝えるものだから、俺は少し照れてしまった。「俺も」と三文字喋るのがやっとだった。もう五文字、言葉にしてやればよかったと今では思う。

 眩しさに目を開けると、目の前に人がいた。シルエットからして警察官のようだ。影は二つあり、片方が懐中電灯で俺の顔を照らしている。起き上がり、質問に答える姿勢を見せた。どくどくと心臓が脈打ち始める。
「さっき、不審な人物が山へ入ったと通報があってね。お兄さん、ここで何をしているの?この包み、中を見せてもらえるかな」
言うや否や、もう一人がガムテープをはがし始める。俺は、黙ってそれを眺めていた。しばらくのち、二人が顔を見合わせる。はがされたテープの向こう、シートと毛布で幾重にもくるまれていたのは、彼女が大好きだった漫画の束だった。