王子様は白雪姫に口づけをしました。すると、姫の頬にみるみる赤みが戻り、澄んだ海の底のような瞳が開かれ、ローズの唇からは透き通るような声が――という場面を誰もが想像しました。さらに言えば、そうなるということを、そこにいた誰もが信じて疑いませんでした。七人の小人も、王子も、白雪姫本人でさえも。けれど――
「どういうことだ?」
姫君の目が開かれることはありませんでした。それどころか、息を吹き返す様子もありません。ただ彼女の艶やかな髪だけが、温かい日差しを反射して、生前と変わらず煌めいていました。
 一同は慌てました。なぜなら、姫は生きかえらなければならないからです。そういうシナリオなのであり、そうでなければこのお話は成り立たなくなってしまいます。そう、そんなことはあってはならないことでした。
「話が違うじゃないか?」
 七人のうちの一人が声を荒げました。驚きと憤りで混乱している様子です。そして、それは他の六人も同じことでした。無理もありません。なにしろ、いままでこんなことは一度としてありませんでしたから。小人たちは再び白雪姫を調べ始めました。そして、やはり何の痕跡も見当たらないことを確認すると、がっくりとうなだれてしまいました。櫛が刺さっていれば、抜けばよいでしょう。リボンが巻きついていれば、ほどけばよいでしょう。しかし、姫の遺体にはおおよそ原因と言えそうなものは一つとしてありませんでした。これではどうすることもできません。
 小人たちが調べるのを後ろから黙って見ていた王子は、姫が生きかえりそうにないのが分かると、こう提案しました。
「どうやら姫君はまだ眠り足りないようだ。どうだろう、目覚めるまでの間、私の城で姫を預からせていただくというのは?」
 七人はしばらく相談して、遺体を王子に譲ることにしました。どうしたって姫は生きかえりそうもないのです。半分、小人たちはやけを起こしていました。今更埋めることもできませんし、いくら美しい姫君と言えど、死体は死体です。それに、姫が森に来るまでは、随分長いこと小人は七人で暮らしてきたのでした。この王子がその後、姫をどうするか心配な部分もありましたが、少なくとも乱暴に扱うことはないでしょう。もし生きかえっても、二人は幸せな結末を迎えるに違いない。七人はめいめいにそう言い聞かせました。
 城に帰った後、王子は甲斐甲斐しく姫の世話をしました。まず、白雪姫専用の部屋を用意させ、新しい家具をそろえました。食事の際も棺をそばに置かせ、美しい姫を見つめながら料理を口に運びました。天気の良い日は、庭に連れ出して様々なことを姫に話して聞かせました。雨の降る日には、棺の横に腰かけ、静かな詩を朗読しました。夜はふかふかのベッドに彼女を横たえ、寝る前はおやすみのキスをしました。姫の体は相変わらず青白く、雪のように冷たいままでしたが、腐ることはありませんでした。王子が、国一番の魔導士に、永久に体の腐らない魔法をかけさせたのです。王子は心の底から白雪姫を愛していました。そして、姫もまた、王子のことを愛おしく思っていました。彼の愛は、彼女がこれまで出会ったどの人間のものよりも深く純粋で、なにより朽ちることがないのですから。
(お母様は死んでしまわれたし、お父様は私を追い出した。二番目のお母様はご自分がお好きなのだし、あの小人たちも仕事のできない娘を煩わしく思っていたに違いないわ)
死後、思いがけず永遠の命を得た白雪姫は、その美しい髪を煌めかせながら、どこまでも続くであろう甘い幸せにうっとりしました。

 しかし、その幸せもそう長くは続きませんでした。白雪姫が毒りんごを食べてから半年ほど経ったある日のことです。それは、王子の食事のあと、姫が再び部屋へと運ばれる最中に起こりました。姫を運ぶ係の者が、ついうっかりつまずいて、棺を柱にぶつけてしまったのです。棺はガタンと音を立て、その拍子に姫の喉につかえていたりんごが口から飛び出しました。驚いた姫がぱっちりと瞼を開くと、棺の中身を確認しようと覗き込んだ王子と目が合いました。冬の晴れ空を思わせるサファイアの瞳。上等なシルクのようなブロンド。ミルクのように白い肌と、その上に散らばるそばかす。それらの全てを白雪姫はその日、初めて目にすることができました。
(なんて素敵な方なのかしら!)
(どんな容姿であろうとも愛するつもりではあったけれど。こんなに美しい方に会うのは初めてだわ)
姫の頬はバラ色に染まり、海の底のような瞳には輝きが戻りました。
(死体である自分をあそこまで愛せるお方なのだから、生きかえってからの生活はさらに幸福なものに違いない)
 甘い想像に浸る彼女は、王子の表情に少し陰のかかったことに気づけませんでした。

 そこからの時の流れは早いものでした。姫が生きかえったことを知った王子の両親――つまりその国の国王と妃――は、すぐさま二人の結婚を取り決めました。結婚式の準備に国民へのお披露目と、慌ただしく毎日が過ぎていき、そのために、姫と王子は以前ほど一緒にはいられない日が続きました。姫は二人で過ごす時間が待ち遠しくてたまりませんでした。そして、ある日ふと、自分が生きかえったあの日から、王子が自分と目を合わせてくれないことに気がつきました。挙式を終え、落ち着いた日々に戻った後も、王子への不安はぬぐえませんでした。式の後からは、王子が再び姫と目を合わせてくれるようになりましたが、時折、その目が自分ではない何かを映しているように感じられました。姫は死んでいる間、目を閉じていましたので、その前後での王子時の表情の違いは分からなかったのですけれど、何かが少し変わってしまったように思えました。結婚したことで関係が少し変化したのだ。姫はそう己に言い聞かせます。しかし、とらえどころがなくぼんやりとまとわりつく不吉な予感は、ある日を境にはっきりと輪郭を現すのでした。
くしゃり――。
 そんな音が聞こえてきそうなほど、王子の顔は悲しく歪んでいました。驚いた姫は、先程まで王子の手の上に重ねていた、自身の手を離しました。それによって彼は我にかえり、彼女と目を合わせると、その手を引いて力強く抱きしめました。その瞬間、聡明な彼女にはわかってしまいました。彼が愛していたのは自分ではなかったということが。死体の自分にも愛を注いでくれたというのは間違いで、始めから彼は私の「死体」を愛していたのだと、気がついてしまったのです。そんな彼にとって、こんな自分の体温は煩わしいものでしかないのでしょう。彼は、自分の瞳に再び光が灯るのを望んではいなかったのでしょう。だから彼は――。絡み合った糸がほどけるように、全てのことがすとん、と腑に落ちてしまいました。けれども彼女は、彼を憎むことができません。なぜなら、手を引かれた瞬間、彼の目の奥に悲しみでない何かを見たからです。温かい自分の体を抱きしめる彼も、自分が冷たくなった体しか愛せないことに気づき、苦しんでいるのでしょう。彼女が死体であった頃は、こんなにも力強く抱きしめられたことはありませんでした。そのことが悲しくて悲しくて、姫は泣きました。涙はあとからあとから湧いてきます。王子も何も言いません。二人はしばらく、そうしていました。(これを愛と呼ぶ人がいなくても、自分がそう名付けてしまえば、私は愛されていることになるのではあるまいか)泣き疲れた姫は、ぼんやりとした頭でそう考えたところで眠りにつきました。
 結論から言うと、姫は愛されませんでした。国王と妃は、昔から変わり者だった末の息子が身を固めたことに安堵しています。国民たちも二人の結婚を祝福し、「愛の力」で生き返った姫と王子の奇跡に熱狂しています。姫の故郷では、国王を暗殺して独裁を始めた妃の首が飛んだところです。七人の小人たちは今日も元気に木こりをしているところでしょう。姫と王子の関係はすっかり冷え込んでしまいましたが、今日も世界は平和に回っています。白雪姫は、ゆっくりと漂う雲を眺めていました。彼女の黒く長い髪だけが、以前と変わらずさらさらと揺れていました。